讃祷歌

今日はどうしたものか、ぜんぜーんお客様が少ない。
雨のせいにはしたくないが、少ない。
おかげで、念珠堂の倉庫の整理に汗を流すことができた。

おかげで、懐かしいものを発見した。

「歌マンダラ 讃祷歌 31回公演」
10年前の公演のパンフレット。
この公演の直前まで新宿のお寺まで練習に3年通っていた。
師の理想に共感したこともあったが
何より旋律の美しさに、魅了されつづけたためである。

さらにさかのぼること8年前(通算18年)にコラムで紹介されていた
讃祷歌と呼ぶ聞いたこともない楽曲に興味を示した。
讃美歌?祷り?さんとうか?山頭火?
?が4つも5つもついてしまう
試聴テープを依頼するも、期待はしていなかった。

まもなく送られてきた。

しかし、一度、耳にして魅了された。
感動した勢いで、感想をしたため、ポストに投函していた。

ある日、お店に電話が入った。

新堀智朝尼ご本人からであった。
はがき一枚の感想文に、作者がわざわざ連絡をくださった。

「こんなにストレートな感想を書いてくださってありがとう」
開口一番、か細くも芯のある声だった。
興味がわいた。

新宿参宮橋の小さな庵に、訪ねるのはまもなくのことだった。

お付き合いすればするほど
どれほどの教訓を与えてくださったかろうか。

早々に彼岸に渡られてしまったことを心から惜しむ。

パンフレットには、96年5月と記されている。
それまでの8年間、実際、歌ったのは3年間ほどだったろうか。
歌の世界には程遠いが、プロの声楽家と曲がりなりにも(大曲だが)
肩を並べて歌う機会を与えてくださり、歌の楽しさを伝授していただいた。

新堀智朝尼。
天才的仏教歌作曲家。

日常生活中、仏前でお勤め中、場所にかまわず、
自然と口からこぼれ出る曲を書き留めていかれた。
亡くなるまでの僅かな期間に240曲を越える曲を書き留めて逝かれた。

音譜一つ書いたこともない、一尼僧が著し続けた業績は大きい。
文字通り「天賦の才」と思っている。

宗派宗教を超えて、歌の世界で融和させようと試みてこられた。

「十年、世に出すのが遅かったわ…」
僕にポロリと、口に出されたことのある言葉だった。
今思えば、ご自分の死期を感じておられたのだろうか。

世の乱れを心から悲しみ、
女学生のような笑顔に似合わぬ、痛烈な(大人社会への)警告、
宗教界への警笛を鳴らし続けられた姿。

70才を越えてなお世界を飛び回られた。

そんな姿を、死の直前まで、間近に接することができたことは、
見えざる宝だった。

次の一歩を出す迷いを感じるとき、師の言葉を規範としている自分に
今も気付く。