念珠の仕立で目を寄らせていると、
「よ!」っとばかりに肩をたたかれる。
向島のM先生だった。

80を越えてなおエネルギッシュなのだ。
写仏を教えて長い。
ご本人も高野山に上がり
お坊さんたちを指導するほどの技量を持つ。
老齢にもかかわらず、毎週、和歌山と東京を往復する生活を
10年近く続けた。

向島からここ浅草までも、自転車で桜橋を渡って川沿いに走って来る。
舌を巻く。同じ年齢になった時、自分はできるだろうか・・・と。

今日も、鎌倉十三仏を徒歩で廻ったその足で表装依頼のために
もちろん朱印をもらう、まくり(掛軸の画の部分)の
十三仏は、M先生お手製のものである。

恩人の葬儀のため、寝ずに書かれたと言う。

うちの店には、「難波敦朗氏」の仏画が数点、壁を占領している。

もし氏が体調を崩さなければ、写仏の教室を始める予定だった。

亡くなられた後は、数週間、ぼくの魂は、空中分解状態だった。
それだけに氏の画には、思い入れがある。

「またいい仕事しようね」そうおっしゃった言葉が今も耳について離れない。
店の真ん中で十一面千手観音が鎮座しているが
店の守り仏なのである。

M先生、実は、氏の数少ない弟子の一人なのである。
その話になると、いつも「不思議やね・・・」と
お互い感慨深くため息をつくことになっている。

「本当ですね」
これもぼくの決まり文句なのである。

「どこでどうつながっているかは、わからないよ」
「だから、誠実に一つ一つのことをこなしていくしかないんだよ」
これもM先生の決まり文句。

やんちゃだった若い頃など
微塵も感じない慈愛の目でいつも笑みを残し、

「えっこらしょ」とふたたび自転車を走らすのである。