ぼくが念珠堂をはじめた頃

僕が仏具店のまね事をはじめたころ、
まだ世の中は、好景気の真っ只中だった。

仏壇は置いておけば飛ぶように売れた。という時代は
とっくに過ぎてはいたようだが、

まだ、バブルの余波を受けて、国中がまだまだ乱舞し
業界もまだまだ鼻息の荒い時代だったようだ。

ただ、土地神話は気をつけなさい、
という言葉もちらりほらりと聞こえてきてはいた。

当時の電話帳を見れば、
1ページ広告1/2ページ広告などこの業界の老舗たちが
ページを飾って、如実に景気を物語っていた。

僕はといえば、
資本も売り先もない中で、船出してしまったわけで、
広告を打つにも、チラシ1枚作るにも元手がない。
そんな、帆一枚で荒海を越えるが如く、無謀な舵取りだった。

ただ、唯一の財産は、後先考えない若さがあった。
情熱と、念珠つくりの技術だけは蓄積していた。
(もちろん技術は見よう見まねで盗んだのである)
そして、とにかく人が好きだった。

10坪にも満たない店には、仏壇を置くスペースなんて
猫の額どころか、ねずみの額ほどしかなかった。

でも、そうした環境が幸いした。
当時、念珠や、香は、他店では、
仏具商として体裁をたもてばよい商材だった。
店の隅に申しわけ程度のつけたし商材であり、
1円単位の利益なんて、必要のない利益だった。

どーんと仏壇で利益を確保すればよかったのだから
3割4割引きで売られる店もあった。

そうした脇商品を、あえてメイン商材としてスポットを当てた。
正確には、「当てざるを得なかった」と言うのが本音でもあった。

もし、それ相応の店舗広さと資金があったとしたら、
「念珠堂」という名前すらなかったかも知れない。

他を見渡してみても、そんな店は、当時一軒もなかったと記憶する。

高額な仏壇が飛ぶように売れるそんな時代に、
あえて、手間のかかる利益の薄い商材を、
メインに選ぶなんて、気が知れないというところだろ。

すぐに消えてなくなると思われていたかもしれない。

自分に恐怖感はなかったかといえば、うそになる。

けれど、それ以上に、「自分にはこれしかない」
切羽詰った、どん尻の開き直りがあったし、

若かりし頃、生死の境をうろついたとき、
生きた仏教には、逢えなかった苦い思いを
念珠という手ごろな法具に賭けてみたくなっていた。

今に至った。

「もうだめ」が幾度あったか知れない。
が、そのつど不思議な出逢いによって、必ず救われてきた。
筆舌に尽くせないと言う表現があるが、文字通りなのだ。

法具を意識させていただいてきたおかげだろうか。

さてさて、今日は、どんな出逢いがあるだろう。