こういうのもあるでよ。

仏像・・・とは言いにくいけど、
当店の過去歴みたいなものですが、
こんなミニチュアも作ったことがあります。

鯱(しゃちほこ)

でも・・・
何に使ったんだろう・・・

まだまだ

お得意さんであり、大切な友人Sさんと話している中で
ふっと気付かされた。

あるとき不幸を背負ってきた少年を担任の教師が「私が慰めてあげる」と心でだきかかえようとしたそうな。けれど、「幸福なあんたに何が分かる」と幼少のころから背負ってきた重荷を持つ不遇の少年は、「分かるわけがない」と拒んだのだと言う。

確かに、然り。そのとおりだと思った。

慰めたいと思う回りの気持ちもわかる。けれど
慰められれば慰められるほど、
慰められる側の心は空回りするだろう。
「あんたに何がわかる」

同情・・・同じ情に立つ
同じ情になる為には、同じ境遇を通過しなければ、得れる方法はないだろう。
社会的要因、家庭的要因、個人的要因、
それに先天的、家系的要因まで考えていくと、

人の十字架は、軽々しく背負うことはできない。
でも、
それでも背負ったまま生き続けなければならないのも人間なのだ。

忘却すること。
生を止めること。
自ら以上の苦を背負って生きる人を探すこと。

の3択しか解く鍵はないように感ずる。

忘却というと、いい加減なように聞こえるが、
実は積極策なのだと思う。
生きたい、元に戻りたいと根底にあるが故の生きる術なのだと思う。

生を止める事。もちろんそれも本人の選択肢なのだが、
後々周りへの後遺症を考えた場合、悲しいかな本人の善とは逆に、
最も非善、非人間的である気がする。

残されたものが越えなければならない課題は、
ヒマラヤを未経験者が案内人もなく越えるほど過酷なものだ。
以前の重荷まで重加算されるのだから。

自ら以上の苦を背負いながら、健気に生きている人と出会う
僕の知る限り、心の開放につながる近道と考えている。

人の苦を最大限、自分の苦と捉え生きた宗祖の教えに出会う人もいる。
子を失った悲しみを、親を失った子供を引取り育てることで越える人もいる。
公に生きることでその術を得る人もいる。

人間(じんかん)とはよく表意したもので、
人間で落とした心は、
人間の中でしか拾えないようにできているのかもしれない。

だから、死に急ぐ心を持つものには、
早まるな。
ちょっと待て。
「まだまだ探しきれていないよ」とどうしても言いたくなる。