お手伝い

今までどれだけの巡礼者をお送りしただろう・・・
白装束を身にまとうということは、
死装束を身にまとうということ。

巡礼のスタイルとしてその衣装くらいに思われている方も多いのは事実だ。
「死装束なんて縁起でもない。私は思わないわ」
と思おうが思われまいが、
出生は、れっきとして死出の旅立ちなのである。

だから、送る側からはそんな感傷を込めながら、
「いってらっしゃい」といつも見送る。

長いお付き合いのKさんもこれで何度目の巡礼だろうか。
80歳を超えた今も現役の整体の先生である。
60歳の頃に素行の悪い大男をひょいと投げ飛ばし、
喝采を浴びた。そんな武勇伝を持つ女傑でもある。

人一倍小さな体のどこにそんなエネルギーがあるのか、不思議でならない。
Kさんの祖父にあたる方は私財をなげうって寺を建立された。
「この子が男だったら坊主にしたのに」と終生おっしゃったと言う。
だから本人は、寺に入る代わりに滅私奉公を地で行なってきた。

そんなKさんを慕う患者さんは、休ませてはくれない。
年中無休のところは、僕と五十歩百歩の忙しさだが、
嬉々として文字通り走り回っている。

その中から時間をやりくりつけて四国も観音霊場も廻る。

正直えらいなあといつも見習う。
彼女ができるなら僕にもできないはずはなかろう・・・と。

だから、Kさんに頼まれると断れない。
ぼくも気を遣うでもなくこんないたずらをさせてもらう。

死出の装束なのだからと言うことで、
生前戒名を白衣の襟裏に書かせてもらう。

下手ながらもせめてものお手伝いだと思っている。

時代を繋ぐ

子供のころ読んだ漫画の一こまが何故か心に焼き付いて
いまだに時々顔を出す。

たしか、藤子不二夫のおばけのQ太郎だったと思う。

「戦争が終わって20年だね」

と、Q太郎と正ちゃんが会話をする。
たったそれだけなのだ。
その後も前もストーリーは全く思い出せない。

けれど、戦争という言葉に、強烈な印象を持った。
「そうか20年たったんだ」と子供心に深い感慨とも、
なんともいえない思いにとらわれたのである。

僕は戦後は終わったと宣言された年に生まれのれっきとした戦後派だ、
戦争を知るわけではない。
20年と言うことは昭和40年時点ということで僕は10歳。
小学3年か4年の小僧になぜそんな印象を与えたんだろうと時々思い出す。

ただ一つ考えられるのは、僕の世代は、戦争体験を持つ親の
最後の世代と言うことだ。

また、身の周りにはいくらでも環境はあった。
焼けただれたビル。米軍のかまぼこ兵舎。闇市のようなドヤガイ。
傷痍軍人とおぼしき物乞い。
母親にお金入れてくるとせがむと、
初めのうちは快く出してくれてはいても
度重なると偽者だからやめなと言われ不思議に思った。

高校時代まで、朽ち果てた格納庫が海岸線に残っていた。

グラマンの機銃掃射を受けた話、軍需工場が空襲を受けて逃げ回った話、
話の中にも現実社会の中にも空想にも実態にも教育される現場が合った。
手の届く範囲に戦争があったのだ。

朝鮮動乱があり、ベトナム戦争があり、
子供心にも忘れさせてくれない環境があった。
そんな思いが靖国神社に通うきっかけともなるのだが。

どう次の時代に受け継いでいくのか、
「正しく」繋いでいくことが、僕らの責任なのだ。