お前は生きているというのは名ばかりであって・・・

腕輪の直しが14~5本。
昼食をとっている最中にも依頼が入る。

この季節、夏場を前にして、通しゴムが気になる時期ではある。

預かった腕輪を見ると本当に持ち主の分身であることがよくわかる。

完璧に切れてしまってからお持ちになる方もいらっしゃるし、
ぎりぎりまで使い込まれて、3~4本通しているはずのシリコンゴムが
一本の・・・(その1本も実は無数に細かい糸が束になっている)さらに細かい構成糸の数本をもって、
なんとかかろうじて繋がっているもの。

蚕が吐き出した糸が絡んでいるような姿になるまで使い込んでいらっしゃる姿。

僕の手に乗せたとたん、はらはらと切れていく腕輪。
ちょっとした感動を密かにする。

糸の体裁は守りながらも、じつはゴムの性質を全く失っているもの。
そんな姿を見るときは、ちょっとした感傷にふけるのだ。

気付け!

年間3万人超の命が自らの意思で冥界に旅たつという。
ぼくも22歳のとき親友が旅立った。

どれだけぼく自身の人生観に影響を与えたか
当の彼でさえきっと思いもしなかっただろう。

人生を否定するということは、
数え切れない人の愛を自らの手で無に葬り去ることだ。

親の愛、祖父母の愛、祖祖父母の愛・・・
兄弟の愛、夫婦の愛、子供の愛、友人の愛、
ペットの愛、自然からの愛、
そして自分ひとりが生まれてくるための過去一切の血縁の愛を
一切を否定することなんだ。

その瞬間には、自分の世界しか目に入らなくなる。
自我の・・・
極度なまでの孤立感の中に・・・
視野が狭くなる。

そんなときは、
手のひらを見て欲しい。

そこに
大宇宙が広がっていることに

気付いて欲しい。

自分の意思とは関係なく、そこに息づく生命を。

自分ひとりが撃つうに孤立しているんじゃあないんだと言うことを。
関わりあって、存在していることを。

1人が地上からいなくなったって何も起きなんだ・・・なんてことは
ありえないのだということを。

自分1人がいなくなることは、
大宇宙が悲しむことなんだということを。

大切な私なのだと、
気づいて欲しい。

物より者

巡礼用の足にと、再生中の自転車を時々乗り回している。

この自転車で全国を走り回っていたとはいえ、
30年休眠させていた。ということは・・・
つまり、
ぼくも30年休眠していたのだ。
感覚を取り戻そうと早朝に転がしているのだ。

錆と埃だらけの愛車に、手をかけていなかった年月を思い知らされた。

使えない部品は破棄し、手に入る昔のパーツをしこしこ集めた。

とにかく若い頃なら膨大にあった時間が一体どこに行ってしまったんだろう
と、不思議な感覚に陥りながらも、
時間の合間を搾り出し、わびながらコツコツいじっていた。

往年のレーサーの精悍さにはちょっと及ばないが、
まあまあのところまではレストアは完成できた。

オーダーして30年をゆうに越えた自転車とは、
遠目では見えない。と思う状態になった。
これで足は万全。

あとは天候と、写経と、お店の様子待ち。
三拍子揃ったら
すぐに飛び出せるように旅の準備をしている。

ただ・・・一点

乗り回している間に気が付いたのだが・・・
握力が予想以上に落ちていた・・・

握力が何キロになったのかはわからない。
けれど、
ブレーキに力が入らない。

以前なら二本の指で簡単にブレーキ操作ができたのに、
しかたなくバーの下に手を回して(要するに競輪のような姿勢になって)
ようやくスピードコントロールができる。

あれ・・・
こんなはずじゃあなかったのに。
巡礼をするためには峠を越えなければならないのに、どうするぼく。

もっと初めにレストアすべきものを、
忘れていたようである。