縁は異なもの

僕の店をご存知の方には、ご理解いただけると思うのだが、
店の前面の道路は、浅草にしては珍しく、何の変哲もない黒い舗装の道案内すらない、通り会もない、ごくごく普通の生活道になっている。

地下から地上に出ると方向御地になりやすい。
他の人はわからないが、僕は土地不案内の駅で地下鉄から地上に出るといつも迷子になる。

だからこの通りの商店は道を尋ねられる機会が甚だしく多い。

訪ねられるのも縁のうちと思える者にあたればよいが、そう思えないものもいる。
理不尽な答えをする不届き者もいるみたいで、観光客は浅草の第一印象を損ねて帰ることになる。浅草を好きな自分としてはたまったものではない。

とにかく都営地下鉄を利用して、横浜や千葉方面から地上に出てくると、まずこの通りに出ることになる。

じつは、この通りには思い出がある。
思い出といっても姉が体験した間接的な思い出なのだが。

僕が20才のとき二つ年上の姉は職場結婚をした。
もうできないからと結婚前に最後の家族旅行をすることになった。

僕は照れもあって、なんとかかんとか理由をこじつけて辞退した。
二人で行っておいでと見送る側に回った。

数日後、姉と母二人は日光に出かけた。
方向音痴の二人で大丈夫だろうかと不安を残しながらも。

当時住んでいた横浜から日光に行こうとすれば、
京浜急行を使い相互乗り入れしている都営地下鉄の浅草駅で一旦地上に出て、
松屋デパートのある東武電車の始発駅に乗り換えるのが定石だった。

母は青春時代(戦中)仙台から川崎の軍需工場に動員されていた。
仕事の合間になると、仲間と浅草には遊びに来ることが多かったらしい。
そんな思い出の土地ゆえ、多少の土地勘に自信をもっていたのだろう。

けれどその自信はみごとに砕かれる形となった。

日光から帰ってきた母娘の土産話は、親子喧嘩の話しからはじまった。

都営地下鉄の浅草駅で地上に上がってから、全く方向がわからなくなったのだ。

大きい通りに出れば、すぐに乗り換え駅が見えたはずなのに、
小道である側に出てしまった。

つまり将来、僕の店ができるの側の道だ。

人に道を聞いてもさっぱり要領を得ず、ぐるぐる歩き回っている間に指定をとっていた特急列車は無情にも発車してしまった。

まさか、その十何年後に弟が親子喧嘩の舞台になったその「通り」に
店を出そうとは夢にだに思わなかっただろう。

僕とて、この路上で母娘して血相を変えて走り回っていたかと思うと
旅に付き添わなかった済まなさと、可笑しさが入り混じる。
そして同時に、縁の不可思議さを感じてならない。