誕生日というもの

四捨五入すると赤いものを着る大台に乗ってしまう歳になってしまった。 (まだあと五年あるからちょっと間があり、チョット安堵しているのだが)
お店の子が察してくれて近所の高いケーキで祝ってくれた。

想えば不思議なものだ。
33歳が自分の終了の歳だと、深刻に思い続けたことがうそのように時が流れた。

その思い込みは何処から来たのか?と質問されても、実のところ答えられないのだ。
が、10代半ばから何故か、深刻にそして真剣に思い込んでいた。

33歳までは引き算の人生だったし、それを越えてみると足し算の人生と思えるのだ。
振り返るとそのT・Pの歳に上さんと暮らし始めた。
つまり文字通りT・P(ターニングポイント)なのだと思う。

どういう縁なのだろうかいつも不思議な感覚に襲われる。

上さんに時々話すが、いつも信じてはもらえず笑いでぶっ飛ばされてしまう。
もしも結婚するならば、化粧はしない人がいい。名前は○○がいい。素朴のほうがいい・・・と自分の姿も省みず御託を並べていた。10代後半のことだ。

家庭を築いて数年たったある日、ふと気づいた。
あれ?自分の考えていた以上に全てが的中しているじゃん。
むしろもうちょっと抑えてもいいくらい・・・と思うほどそれは「叶えられていた」(あえてそう言う表現を使いたいと思う)
相手に対しての要求は全部かなえてくれたことになる。
本人は全く忘れていたというのに。

きっと神様と言うおかたはいるのだろう。
果たして自分はどうなのだろう。

「お礼参り」と言う言葉がある。

人はよく神社や寺で願をかける。
日本人ほど(何の神様にも)お参りするのが好きな人種は、世界にも稀ではないだろうか。
寺に神社に教会にモスクに道の地蔵さんに・・・構わず手を合わせ願い誓う。

でもそれは結果から見れば「願い」だけが多いように思う。
神仏に誓い、お願いし、叶えられたとき嬉しさのあまり(なのか?)、神仏の前で誓ったこともすっかり忘れる。お返しすることなど何処吹く風。
喉もと過ぎれば・・・の例えどおりであり本来これほど失礼なことはないのだという。

歳を重ねるたび、当日になるといつも思い出させられること。
終了だと思っていた日が、人生出発の日にさせてもらっていると言うのに・・・
この足し算の間に何をお返ししなければいけなかったんだっけ・・・

と。

“誕生日というもの” への0件の返信

  1. たまたまブログを見せていただいていなかったこの2日間の間に、お誕生日だったのですね。ごめんなさい、遅くなりましたがお誕生日おめでとうございます。
    どうか良いことがたくさんの幸せな年でありますように。

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