やっぱり・・・こうなる

写経の日の朝に、仏花は取り替えてもらえるので、今月は1日が写経会だったことを考えると、なんと22日間、花たちは咲き続けたことになる。

さすが、黄色い菊以外は、みんな絶えてしまっている。

寒い時期だとは言え、大したものだと思う。

キク、菊子、喜久子、紀久子、希久子、貴久子、キク子・・・・

自分の周りには菊に因んだ名前が多い気がする。

昔の人が、生まれた愛しい我が娘に名前を付けるとき、菊をベースにした名前を付けるのは、大輪の菊のように幸多き人を送ってもらいたいとイメーシしたものであろうことを考えるのだが、暗にこの強い生命力にあやかった意味合いも込められているのではなかろうかと、常々想像している。

それにしても強い。

結局花束でもらっても最後はこうなってしまうのだ。

こういうこともします。

あまり話題にならないのでこんなことも玉の精度として考えます。

二枚の写真です。

似たような玉ですが、違いが分かりますか。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

鋭い!

そうです。上の写真は蛇がのたうち回っているようにカクカクしてるでしょ。
玉の真ん中に穴が空いていなくてばらつきがあるということ。
日本国内で玉が削られて作っていた時はまず使われなかったものですが・・・

下の写真は緩やかなカーブはあるもののカクカクはありません。

緩やかなカーブは、通し糸に使っている撚り糸による自然なカーブ。
玉としては真芯に穴があいているということです。

こんなところにも念珠って制度が求められるものなんですよ。本当は。

浅草のそら

今日は春分の日。別名お彼岸の中日です。

ここ浅草は門前町ながら観光客の足が多く宗教都市のイメージで来られるお客様ってどれほどいらっしゃるのだろうか・・・・

年々その傾向は強まっているように感じるのはTONだけだろうか。。。

改めて見ると手の込んだこと。。。

臨済宗の装束である。

臨済宗の装束ならば通常は朱赤を使うところだが、住職のご要望で、お持ちの衣の色に合わせるということで同色とし、しかも細い絹糸(上本糸)を利用してしなやかさを見せたいとのこと。
撚りのかかった霧房用の太い糸を通常は使うのだが・・・そのほうが楽だし少ない糸でボリュウム感も出るのだが・・・・

どの程度の本数を使うのかは、握った感触で決めてしまうのだが、せっかくだから本数を数えてみることにした。

「ちゅーちゅーたこかいな。ちゅーちゅー・・・」とは数えない。

123456789・・・・・・・と数える。

途中紛らわしいことになってしまうから、結局このほうが速い。

以外に多い。800本を過ぎてもまだ半分に行っていない感じ。

1000本・・・・1300本・・・・1500本・・・・超えちゃった。

1677本。奇数になることはないから、数え間違えているのは確か。

ふ~ん。6寸の房長さにしているから18cm×1677本=30186cm≒302m
302m×4房=1208m
1.2kmの長さの絹糸を使用していたということ。。。

まだ軸糸を編み込んだ長さは加えていない。
なかなかでしょ。念珠って。。。。

浅草のそら 今日は昔の観音祭り

夕べは浅草神社の三基の神輿が浅草寺の本堂内にあげられてお泊りされました。
堂上げと呼びます。

神社のお神輿が仏教のお寺に?と不思議に思う方もいらっしゃるかもしれませんね。

けれど、これが日本の仏教なのです。

江戸期までの日本の宗教は、神様と仏様が仲良く手をつないでいたのです。

とくに浅草神社のご祭神のお三方は実在の人物。浅草の郷士と言われる土師中知(はじのなかとも)、観音像を隅田川(当時は海)から掬い上げた桧前浜成、桧前竹成の漁師の兄弟です。

そのご祭神のご子孫が観音堂をずっと守られてきたのがおもしろい所です。

江戸期にはいると、徳川家康からその身分を保証され、専堂坊、斎藤坊、常音坊という名称を頂き、半僧反俗、妻帯という特権を持って代々受け継がれていくのです。

ですので、お坊さんだけで運営されている今の浅草寺とはちょっと色合いが異なりました。

ま、横道に少しそれてしまいましたが、観音様が示現したその日を祝ったその日が3月18日ということで、明治維新までは「観音祭り」として寺も神社もない渾然一体化したお祭りだったのです。
山鉾のような煌びやかな山車を各町で持ち、浅草御門(今の浅草橋)まで引き回し三基の神輿は舟で駒形もしくは山の宿まで運ばれその岸から上陸しました。

今の浅草の範疇を超えて盛大に行われていたのでした。

今の三社祭りとはだいぶ様相も違っていたようですね。