三柱の碑

浅草神社は御祭神を遷された三社のお神輿を物珍しそうに囲んでいました。

雷門や本堂の提灯が潰れているときは神輿が通るとき。今日は堂下げに備えて縮上げていました。

 

神社本殿の隣に三神の牌が建ちその除幕式です。と同時に明治新政府の政策で使えなくなった「土師」の名跡が復活。

実は歴史的な一幕なのです。

 

神事に招待された浅草寺一山の住職が見つめる中、玉串奉奠。

「三柱の碑」は三つ網紋と同じですが、船から投網した魚網を表します(その網に観音様が掛かるわけですが・・・)。真ん中が土師中知(真中知とも)で一之宮。右が二之宮。左側が三之宮。が波を表す白御影石の上でひとつの碑にまとまっています。かわいいですね。

観光連盟の会長と立ち話をしたら、ことしの神輿は変わった向きでしょ。と。

三基とも碑に向けたのだということでした。深く頷くTONでした。

浅草神社本殿前に勢ぞろいした御三神
浅草神社本殿前に勢ぞろいした御三神

節分会・・・いよいよ本当の新年ですね。

浅草寺西塔
浅草寺の西塔
浅草寺の東塔
浅草寺の東塔(冗談ですよ)と節分会の豆まきの舞台。

豆まきの舞台も整って、今日は邪気祓いの節分会。と言いたいところなのだが、浅草寺境内には鬼はいないの。

だから、豆をまくときは、「福は内、福は内・・・」しかないのであります。

鬼だって行き場がなくなれば、(外は寒いだろうに・・・)どこに行けばいいというのだ。と子供の頃かんがえていたけど、出した答えは。

そうか!いい鬼になればいいのだ!いい鬼さんになって世のため人のために活躍してもらえばいいのだ。

ね、いいお兄さん。。。。ん?

や~っと行けた松下村塾。

わかる方は判るだろうし、なんでそんなに時間がかかるのと思う方は思うだろう。

TONの青年時代には「おいでませ山口へ」の謳い文句やら、さらに古くは遠くへ行きたいの山口篇もあって、萩、津和野は小海線幸福駅と並んで青春の思い出に我も我もと足を伸ばしたがる地だったように思う。

TONはあいにくその時代は、乗り鉄だったから、京都発山陰線下関行き鈍行列車に乗っかり、下関で上り列車にそのまま乗って、山陽線経由で京都着というのが唯一中国地方を旅した思い出であって、自転車で巡ったことも、寺廻をした記憶もない。

30年前に神社関係の活動をした時に、顧問だった方が熱烈な吉田松陰命の方で少なからず影響を受け、足を伸ばしてみたい衝動にかられながらも、仕事柄身動きがとれずにいた。

少なくともTONの血のには官軍と戦った先祖の血が流れているし、その本拠地のひとつにはいずれ行きたいと思っていたわけである。

今回、機会あって、萩に行くことができた。

安倍首相とプーチン氏の会談があったホテルに泊まり、翌日に松下村塾にというコースだった。
布団が過負荷していたせいか夢を見た。
コーヒーの宣伝の見過ぎなのか、ジョーンズ宇宙人と共闘で誰かと戦っている夢。血潮を浴びて真っ赤になっているジョーンズ。それを助けるTON。子供じみた夢を夢と早々に気づいて、もう起きなくちゃと目を覚めて強制的に終わらせた。

東京とは時差の為(もちろん時間差はないが)真っ暗の中土地感のない中ランニングをする気も起きず。

で、早々に出発して目的地に向かった。

根っこが大事なのは、木も人も国もおんなじだ・・・と思いながらこの場を後にした。

浅草の最も大切にしたいと思うこと・・・

秋のお彼岸を迎えお花を持つ人をとても目にするようになった。

今日はお彼岸の中日。

以前から是非ともお墓参りに行きたいと思っていた場所があった。

浅草という土地は不思議なところで、街のイメージは活劇、映画、大正ロマン、昭和モダンに賑わいを見せた街という印象が強く、芸能に懐の深いイメージがある。
今年30数年を数えるサンバカーニバルがあるかと思えば、お祭りサンバのように祭り一色に血が踊る伝統さも持ち合わせている。

けれど、浅草寺を抜いてこの街を語ることはできない。

ただ、このお寺の由緒を意識する方がどれほどいらっしゃるのだろうか・・・とも思う。

「日本の古都」と言うとすぐイメージされるのが、京都、奈良の平安京、平城京だと思う。

浅草のあけぼのは推古天皇三六年(628年)と伝わる。

泣くよ鶯平安京だから平安京で延暦十三年(794年)、平城京でも和銅三年(710年)。
都が始めて制定された藤原京ですら持統八年(694年)というから、それより66年も浅草のあけぼのは早いということで、大化の改新以前の事なのだから驚かされる。

史実としてはなかなかそこまでは遡れないようだが、徳川家康、いや太田道灌、いや江戸氏が屋敷を構える遥か昔から、浅草という土地は人の定住場所として栄えていたということが特筆すべきところなのだ。

前振りが長くなってしまったが、その功労者は一も二もなく、江戸浦(隅田川)から兄弟の漁師が掬い拾い上げられた観世音菩薩を私邸に祀りその人生を仏門に捧げた浅草の郷士?土師中知(はじのなかとも)の功績抜きには考えられないことである。

知ってか知らずか、三社祭りで担ぎ回られる一之宮はその人本人のことなのだが。

江戸開府に当たって家康から認められた土師氏への名跡が専堂坊という。
代々浅草寺を取り仕切ってきた。

その伝統が平成の世まで、名跡は引き継がれてきたのだから驚き以外何者でもない。

ただ、明治の悪名高い廃仏毀釈の嵐はそうした伝統にも深い傷跡を残している。

それほど大切な専堂坊の名跡は、それ相応に墓所も管理されて当然と思っていたのだが、代々の墓石を祀っていた浅草の寺は廃寺となり、流転の運命に晒されていたのである。

ぜひお参りしたいと思っていたことが昨日ようやく叶うことができた。

貴重な代々のお墓は、現在どこに祀られているかといえば、目黒の天台宗の寺院、永隆寺に預けられている。

お目当ては思った以上に広い墓所のずっと奥まった場所に祀られていた。

宝篋印塔あり、僧頭墓ありで見る人が見たら由緒をしらべたくなるだろうと思う。

三社の紋である三つ編紋が異彩を放っているのだが。
不思議に思う人はいないのだろうか・・・

ただ、これほど歴史的価値のある墓石群なのに由緒説明ひとつなかったのがTONには残念でならなかった。これって教育〇員会の仕事じゃないのかなぁ・・・

浅草寺の一角にあってふさわしいように思うのはTONだけだろうか・・・

浅草寺境内のお掃除

毎月朔日は浅草寺の掃除に出かける。

行ったりいかなかったりのずぼらな参加だが、去年からはパーフェクトだ。
夜の集まりは体がついていかないから意図的に避けているが、早朝の行事なら鶏より早く起きるTONとしては文字通り朝飯前なのだ。

子供が生まれる前からだから30年近く続けていることになる。

それに、観光寺の顔から本来の信仰の寺の顔を見せてくれるのもこの時間が一番。

ゆえに、苦痛でもなんでもなく続いている。


高村光雲作の沙竭羅竜王。

天井絵も含めて一級の美術品が手の届くところにある。天井には届かないけど・・・ね。


仲見世の装いも夏バージョンに衣替えした。


あ!そうそう。

雷門が改修中で無味乾燥なシートで囲っていたものが、突如として等身大の雷門絵が描かれたことはニュースにもなったらしいが、裏側を写真に収めようとしたところ、早朝から何処かの撮影班が通行止めをして近寄れなかった。

遠目に見ても裏側にも雷門の絵が描かれている。なかなかやるぅ。。。。

戦績

毎月朔日の早朝は浅草寺のお掃除日としている。

浅草の商店主たちによるボランティアなのだが、改めて考えると30年近く続けていることになる。なるほど・・・みんな年輪が刻まれるわけだと神妙になった。

20年を超えて参拝してきた靖国神社もしばらく伺えていないが、境内のそこかしこに戦火を超えてきた足跡を見ることができ、心を新たにさせてもらえる。


満州から命かながら引き上げてこられた石ノ森章太郎氏の作になる親子地蔵。

境内を緑に覆う銀杏の木は空襲による傷跡が今でも色濃く残る。

空襲時に燃えた跡だがそんな中からも見事な枝ぶりを見せるまでになった。

足元は、こんなにも根っこを張り巡らし、命の強さを感じる。

新緑に映える境内は今がいい。

駒形堂の大祭

今日4月19日は駒形堂の一年に一回の大祭です。

朝早くから準備していました。

しかし・・・春だというのに・・・なんという暑さ!

夏日の25℃なんてとっくに越えてしまっているように感じます。
春を通り越して初夏です。

柴又に出かける。

何年ぶりだろう。

電車で来るのはふた桁ぶり?かも。

お客様のご自宅に仏壇修理の下見で伺った。
最近はお客様のご自宅に伺う機会がめっきり減ったのでたまに電車に乗るとわけもなく楽しい。

いつのまにか青砥発から高砂発になってしまった金町線に乗り換え向かう先は寅さんの舞台帝釈天で産湯を浸かりの柴又。

高砂の駅の変わりように驚きはしたけど、高架ホームから出た軌道は次の柴又駅までの間に普通の下町の風景の中に溶け込んでしまった。

浅草が下町下町とよく言われるが、柴又の下町とは全く異なる。

どうかすれば50年前の田無あたりの風景と重なる。

柴又の駅に降りるとその風景はまさにその通りだった。

駅内踏切の残る駅。

5、60年前にはどこでも見られた、隣のホームに渡るためには、踏切を渡らなければならなかった。

まさに昭和の駅。

駅前に出れば、寅さんをさくらが見送っていた。

柴又八幡宮。

古墳(円墳)の上に立つ神社という。
(ちなみに浅草寺も古墳の上に建つ)

柴股村を開墾された古の人に感謝する顕彰碑も境内に建つ。


お寺や神社の中はお宝でいっぱいで去りがたくなるのだ。。。

思いがけないよい出会いをさせていただいた気がする。

せっかくなので帝釈天にも。

堂上げ


桜には早いけれど、風の通り道になる川沿いは寒い。


お寺の本堂内に神輿が入る。

世にも珍しい光景に映るだろう。

元はといえば、浅草神社は権現様。

浅草寺に祀られている観音様を私邸に祀られた篤信者。
それが一之宮の神輿である土師中知。

ちなみに土師氏の末裔は今の神社宮司が62代目である。

神輿の通り道の宝蔵門。
提灯は上げられている。

もうすぐ浅草ルーツのお祭り

意外に、というか、やっぱりと言うか示現会を理解していらっしゃらない人は多い。

浅草の発展には浅草寺の存在は切っても切れない。

その浅草寺の始まりを知る人は地元にいても、「川で拾った観音様」程度にしか認識していない人も意外に多い。

三社祭りの勇壮さは感じても、お寺のお祭りと思っている人も多い。
(本来は間違いではないのだが、神仏が引き裂かれてしまった明治以降は神社のお祭りとなる)

大化の改新は虫五匹と覚えさせられたが、西暦645年よりさらに17年前、西暦628年(推古天皇36年)3月18日に今は隅田川となっているが当時は遠浅の海、江戸浦に漁に出た兄弟の漁師の網に何度もかかり引き上げられた不思議な人形(ひとがた)のものがある。
当時浅草一体を治めていた土師中知(はじのなかとも)に献上する。知識人の中知は観音像であることを理解し、その観音像を祀り帰依し、自邸を寺とした(私度僧)。

観音様の引き揚げられた記念すべき日、つまり示現された日を古式にのっとり祭りとしたのが示現会。

三社祭りは江戸時代末までは観音祭りと称して、神輿はもちろんだが山鉾の如き勇壮な山車も出た。2012年には船祭り・船渡御の再現も行われている。

旧暦を新暦に移した時に5月に変更された三社祭りだが、元々は3月18日がご縁日と覚えておいてもらいたいな。