写経同好会

三年間のコロナ自粛で写経も三年間お休みを余儀なくされてしまっていた。
ようやく規制は解除されたが、高齢者で構成する沙羅の会には三年間というハードルはかなり高かった。

いろいろ相談、打ち合わせを重ねた。ここらが潮時かという雰囲気。一息つけようもやむなしの同調空気もあったが、参加者全員を集めていざ蓋を開けてみると、「続けるんでしょ?」と先手を打たれた。後で聞いたが、辞める気マンマンの顔をしていたと聞かされた。顔に出たかまだまだだなぁ。

「難しことはいいから、皆が集まって心を空にする、できる時間はとても貴重なの」との言葉を聞いてしまう。「同好会でいいじゃない」そんな言葉が飛び交いあれよあれよと、日時が決まり、会場が決まり、参加者が決まってしまった。
心を空にする集まり。もう少し続けていこう。。。答えが決まった。

懐かしい顔が揃った。

いつ行けるかなぁ。。。

念珠堂の古くからのお客様が歩き遍路に旅立った。

以前順打ちで回っているが、再びの遍路路行き。80歳を過ぎての逆打ちを決意した趣意書のようなものだろうかある日見せてくださった。

ある面うらやましい。

体力が落ちないように早朝のランを初めて15年龍がまだ四国には旅立てないでいる。
こんなものさっと決意してでかけりゃいいことと思うだろうがそれができないのさ。
だから彼のように心を揺さぶられる何かに出会い旅立つ人を見るのは嬉しいし心強くもある。

どうか気をつけてお大師様と歩いてきてください。

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リトマス紙

昨日、ずっと長らく合っていなかった大先輩からLINEが入った。
何事かと恐る恐るだが意を決してLINEを返してみることにした。
僕が一行書く間に10行が還ってくる。
いろいろ情報交換をしながらこの人ならもしかしたらと切り出した。
とても大切ながらもずっと連絡のとれていなかった友人(共通の友人だったので)。その消息を知りたかったのだ。

アメリカをこよなく愛し、仕事の合間に横須賀の米軍基地の将校の家のお手伝いをしてまで生きた英語を身につけて準備をしていた。準備の完了するやいなや、周りの声を聞くまでもなくとっとと渡米してスパニッシュの方と結婚した。
一途で気持ちがクリアで話しているとこちらの心のねじ曲がりを修正してくれるそんなリトマス試験紙みたいな人だった。
渡米してからは文通が唯一の情報交換の時代。こちらも会社を興したりバタバタしていている間にわからなくなってしまった。何年も前から連絡の方法を模索していたが全くわからずのまま無駄な時が過ぎシしている間に今回のLINE。調べてもらうとなんと10年前にこの世を去ったとわかった。ガンだったと聞いた。正直落ち込んだ。
そして気づかされた。思うことはすぐにやりなさい。後悔をしないため。
思いをいつまでも引きずってはいけない。
一期一会を常に実践しなさい。
そんなことなんだと思ったのだ。

あなたは今でもリトマス試験紙でいてくれているんだね。

4年ぶりの写経会  ようやく再スタート。

まる三年中止せざるを得なかった写経会。
店の二階はとても使えない状態だったので会場を借りての再スタート。

久々の写経は写し紙でした。おまけに筆ペン(絶対普段はやらないんだけど)。早いのなんの。墨を磨らないでよいということはなんと早いことでしょうか。一時間で書き終えてしまった。

またあいましょう。。。

昨年からお世話になったお客様の訃報が続く。

30年を越えて陰に陽にお付き合いして頂いたお客様との離別。

お客さまいう単語では言い表せない。友人、恩人、師匠、、、なんだろう、親戚のおじさん、おばさんとでも言うのかな、少なくともお金の行き来だけのお付き合いではないのだから。

イチロー、ジロー、サブローさんとTONの心の中であだ名していたお客様も、去年の暮れ16日にイチローさんがお亡くなりになって現世ではお会いすることはできなくなった。世話好きでイチローさんのファンが店に訪ねてきてくれるほどだった。お寺や神社の話題で盛り上がることはできなくなりましたね。

今日は一緒に善光寺や比叡山に旅させていただいたり、共に観劇に行ってみたり、うまいコーヒーには目のないTさんが正月の松の内に亡くなられたことを告げに奥様とお嬢さんで来てくださった。
彼にもどれほど励まされてきただろう。実のお姉さんもすでに鬼籍に入っているが姉弟そして奥様で笑顔を数え切れぬほどいただいてきた。
幾ばくかの経済的結果は仕事である以上必要だが、それだけでは仕事は続かない。そんなつながりなら最後は怠惰になって雲散霧消するのがオチだと思っている。
うさぎやのどら焼きがTさんのトレードマークだった。

今日の手土産は奥様によるがTさん、一緒に来てくれましたね。

また会いましょう。

継続のエネルギー。

朝一番でご来店いただいた。

はい。とばかりにお買い物の後に手渡された。

菩提寺に収められたOさんのお遍路の航跡の数々。番外を含めたお四国の108令嬢の横額は人きは際立って見える。職人もちょっと苦労した力作だしね。

先回ご来店くださった時に、お寺に奉納した全容を「見てみたいです」と漏らした。が、コロナの今の現状じゃ店を抜け出せませんから・・・との言葉を覚えていてくださった。わざわざ写真を撮り、額にしてくださってお持ちくださったのだ。お買い物は付け足しだ。

感動した。

お客様とのそんな心の交流が、TONにとっての燃料になる。

早速、巡礼コーナーに展示させていただいた。

今生

しばらくぶりに懐かしいお客様が訪ねてくださった。大事にしてきた念珠が切れてしまったと言うことだった。

ご夫婦仲が良く、いつもご一緒にいらして下さり、十三仏だったと思うが掛軸をお買い求め頂いた。拙い商品説明にも真剣に向かい合ってくださって、奥様と顔を見合わせながら、ほほ笑んで即決してくださったのをよく覚えている。うちが企画を行って招待状を出すと、いつも二人で「来たよ」とTONを会場の中から探して声をかけてくださっていた。

かれこれ30年近くになる。奥様一人は珍しい。

着江場三年前に他界されたと言う。その前に最愛のお嬢さまを50代で亡くされて、気落ちされたまま気力を失われたようだった。

ちょうどTONの木心の近い先輩が亡くなった報がその朝届いたばかりだったこともあって、なんともいたたまれない気持ちに落ち込んだ。いずれあちらの世界で再会するのだからそれまでさといつも思うようにしているのだが、それでもそれまでの寂しさは寂しさのままなのだ。

今生にあり縁もてし人はやはり大切にしたい。

お客様と出会えるのも一期一会だなと思った次第。

難波淳朗という作家

念珠堂を開店した40年前、まだ什器もまともに間に合わないまま、はじめの一歩の企画として行ったのが、仏壇とは縁もゆかりも?ない作家の個展だった。

「難波淳朗」名を聞いてほ~!と驚かれる人はかなり写仏に心した方だろうか。

今では一般化した写仏という名詞となった仏様を写すという修行をカルチャーとして根付かせられた功労者の一人だった。

「だった」というのは、すでに鬼籍に入られてしまっているからなのだが、今のショールームをオープンして数年で亡くなられてしまった。

カルチャー教室をいくつも主催されており、片肺の体を押して東奔西走されていた。

その人間性に魅了されるファンや生徒さんたちも多かった。

氏のアトリエを訪ねたとき「僕の絵を銀行や病院や役所に飾れるようになったら社会や人の心の風向きはだいぶ様変わりしているだろう」とぼそっと語られた言葉は今も耳から離れない。

写仏教室を店のカルチャー室を使って行う準備をしている最中に一風が過ぎるように旅たってしまった。

あと4年もすれば33回忌・・・かぁ。

今日、生徒さんのお一人の方が先生の遺された作品だからとお持ちくださった。TONが氏の大ファンなんですよと以前お話したことを覚えておいてくださっていた。

ご高齢にもかかわらず川向こうから訪ねてくださった。ありがたい。

氏の筆使いを久しぶりに拝見することができた。

先生、クリスチャンだったことを憚らず僕の観音様はマリア様なんだよと耳打ちしてくれましたっけね。

春が来た

一足早く桜が咲いています。

造花じゃないよ。

店の対面にあるミフィの花屋さんの店長さんからいただいた。

昨日はまだ蕾だったのに一日で開花してしまいました。

花は、見えざるところでしっかり根を張っていく。あっと思った時には全開する。

人も同じだね。