浅草のそら 関東大震災から100年

今朝の朝ブラは明日の朝は動けないだろうことを考えて、震災記念堂(両国横網町)にスタスタ行ってきた。なぜなら明日は震災から100年のけじめの年だからいつになく心が動いたのだ。

朝ブラコースにしばらく川沿いの道は避けていたこともあったけど、南北の通りは海風(川風)のせいだろうか気持ちのよい風が吹いて気を安らいでくれる。

東京とはおもしろい町ですっかり焼け野原になってしまったと言いながら所々の辻に歴史をそっと押しつつみながらも自己主張している。
そらそうだろ。人の営みはそう簡単に消えやしない。消せたように見えても我ここにありと何らかの痕跡を残すものだ。

そんな小さなあしあとを楽しみながら旧奥州街道(江戸通り)から両国橋を渡り国技館前をすり抜けて横網町被覆廠跡に建つ東京慰霊堂にお参りに立ち寄る。
前にも書いたが、TONは小学生低学年の時にこの建物の存在を知った。知ってから行ってみたい思いに東京ひとり旅を計画し、母親に計画書を提出した。があまりに甘い計画書はボツとなった経緯がある。奥多摩まで足を伸ばす計画が余計だったことはここだけの話だ。

その願いが叶ったのは、20年経ってからだった。墨田区の大平町にわけあって引っ越したのだ。とあれば目と鼻の先の慰霊堂にお参りに行かない手はなかった。

ただ、行く時間が問題だった。
仕事の終わりに、そう5時頃だったかな秋頃の5時と言えば少々うす暗くなっていてカラスも巣に帰る時間帯?ここがどういうところかよく知っているわけで、当時は今のような開放的な空間ではなかったし、冷たいものが背に触れる。。。あの感覚の中にとっさに逃げて帰ってきた。これがあこがれの慰霊堂との初対面だった。

時間を考えて再度お参りに行ったのは言うまでもない。

縁は異なもので、数年後ここを管理していた庭師のおじさんと仲良くなり、納骨堂の中まで案内してもらうこととなった。
説明を聞いている最中、涙を抑えるのがせいっぱいだったことは誰にも言いたくないここだけの話だ。しかし、もしあの光景を見て感情が揺さぶられない人間がいたとしたら人じゃないな。。。
特大の白瓶(骨壷ともいう)には何町何丁目何番地付近などと書いた白紙が貼られ、実際何体収められているのかわからないそんなカメが整然と天井高くまで納骨堂の棚に積み上げられていた。
おじさんは出勤すると、そのカメの蓋を一つ一つ半開きにしてあげていちいち声をかけてあげていた。それが朝一の仕事だった。

メトロポリタンTOKIO、華々しい摩天楼のTOKYO、たかだか震災から100年戦争から78年、夢も希望もあったであろう人、人、人、一瞬にして灰塵に帰していった。東京の繁栄に埋もれるような一角に16万柱を越える魂が息づいていることは、少なくとも都民である私は知っていてあげたいと思うのだ。

普段はここの入口は締め切られている。ここが慰霊堂の要なのだ。
震災から100年という記念の年にしては、あっさりして見えるのはTONだけだろうか。
数年前に化粧直しが終わって清潔感は保たれた。

なんだかわかるかなぁ。。。

浅草のそら

今日は用事があって故郷の横浜に足を延ばした。
生まれは本牧で海の近くだけど、小学校に上がる前に六角橋のどちらかというと農家の空気が漂う街へ引越し、の後またまた市内の下町(東京の下町とは違う空気を持つ)に引っ越すわけで、どっちに転んでも横浜という土地からは終生離れないだろうと、とことんこの土地の水を楽しんでいた。故に箱庭のような旧市街は目をつぶっていても(流石に無理だが)目的地には勝手に足が向かうことができるほど愛した。市内電車に乗るお金がなくて電車道をテクテク歩いていたのが小学時代だったこともあってか電車の走る通りには子供の心に郷土愛をすり込むにはちょうど良かったのかもしれない。
そんなことで久々に関内から馬車道を往復し日本初の鉄の橋、吉田橋(跡)を渡り(渡ったつもり)伊勢佐木モールを歩いた。
見えるはずのないのに僕の子供のころの幻が行く先々に先導してくれて、足がさっぱり前へ進みやしないじゃん。
そんな不思議な一日でした。とさ。