四萬六千日というか今日はほおずき市。明日が本番。

神社は夏詣。寺はお盆。

朝が早いせいもあるかもしれないが屋台やほおずきの出店が少なく感じるのはTONの錯覚だろうか。

小学生がこの場を通って登校するのは浅草、っていう光景かな。

明日は観音様のご利益絶頂日の四万六千日当日となる。

今日より人手が多くなったら、大したものだと思う。
今日は日曜日。人手が多いのは当たり前だが、明日は観音信仰のメモリアルディだからだ。
ブラックマンディ…じゃない、ハッピーマンディの施策で本来の記念日が人の(経済の)都合で勝手に動かされて連休を生む方策とされたわけだが、記念日とはそういうものではないだろう!がTONの思い。これからの誕生日は〇月の第二週の金曜日ね。結婚記念日は〇月の第一火曜日にしたよ。誰が納得いくだろうか。そのうちめんどくさくなって雲散霧消するのがおちだ。

∴四万六千日は7月10日なのだ。これとて本当は旧暦で数えるのが本当だったりして。

牛島神社界隈

スカイツリーまでの道中は大手資本や自治体の手が入りすっかり変貌した。

東武電車の広大な基地のあったスカイツリーの敷地が今のように開発されようとはだれが想像できただろう。北十間川と隅田川との合流地点の枕橋からスカイツリーまでの電車の高架下はご存知であろうミズマチと名がつけられた商業施設となって枕橋あたりが昭和の頭まで東武の駅だった痕跡すら消えてしまった。
電車や車で通ったりすれば10分も満たない距離なのだけど、てくてく歩いてみると、ホーっと思わせてくれる歴史の痕跡を見せてくれる。

川の反対側(浅草側)に住んでいるとわざわざ牛島神社に詣でることもないのだけれど朝ブラブラの中でお参り方々覗いてみると、震撼とした社域は保たれているのに驚く。
貞観二年(860年)、慈覚大師の御神託により創建。というのだからなかなかの社歴である。
ご祭神は須佐之男命、天之穂日命、貞辰親王命
須佐之男命ばかりが目立つ。

須佐之男の命を祀る神社は牛とのご縁が深い。どこか艶かしい牛様。
狛犬は各神社見比べていくとなかなか面白い。
水戸藩江戸下屋敷跡地の公園。昔の日本庭園風の配置とはガラッと変わった。
おまけ。徳川家康の入府400年祭の記念カラーだったと思うスペーシアのカラーリング。今年も走る。

2023年元旦朝ブラ

明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします。

全~~~く季節感を無くしてしまったようなここ最近の暮れ正月なのだが、今年(去年か)はさらに輪をかけた感があった。ただ、やり残しがあるようような焦燥感だけが仕事の原動力にはなっていたのが正直なところ。

それでも元旦の朝は若い頃からの習慣?からか初日の出に祈るなんて洒落た気分が湧いてくるのだからルーチンは大切に。だ。

でもそのルーチンも手抜きをした。常ならば、必要以上に早くに目を覚ませ、それすら体内時計で勝手に起きれたものなのだが携帯の目覚ましに頼って、スヌーズ機能まで起動させて2回目にやっと起きたのが現実。

いかんなぁ。。。と思いつつもさっと着替えてさっと出て行くところは憎い。

この時間に歩き出すのは久々だ。
たったか走れたときはいつも夜明け前だった。
膝と腰を気遣って歩きに変えてからは、夏でない真冬の季節、早足とはいえ汗が噴き出すには時間がかかるわけで、おひさまが顔を出してから始めようとなってしまった。
またいずれそのうち走れるようになるだろう。焦るな焦るな。

駒形堂6時半でこの明るさ。まだ夜明け前。今日は桜橋まででいいや。
しかし日は確実に長くなった。。。気がする。

おいお前!って

はい!初日の出。それでも予定の15分遅れだよ。都会の日の出は遅い。
人が多い。去年の三倍くらいはいるかな。

待乳山聖天の甍が神々しい。。。がよくわからないじゃん。
観音様内は人でごった返しているように見えますか?いえいえ本来なら今立つこの場所なんて押すな押すなで外にはじかれちゃうんでありますよ。

普通の祝日の参拝風景と変わらない。
元旦は日本の国旗が全ての店の軒先を飾り壮観だったのだが。。。
一方通行にならないね。どうやら午後から一方通行になったようだ。脇道からの流入雨も無理ですよ。ご注意あれ。
お参りは早朝に限ります。。。

コロナ禍の祭り

お見事!としか言いようのない光景だ。

朝のこの時間は活きのいい担ぎ手の連中で足場もないほど混むはずだったが。。。
三社宮神輿庫の鉄扉も固く閉められている。
雷門前がにわかにギャラリー的に多い。ん?なにかある。。。

当たり!

神様をお遷りいただいたお櫃がわが町内を廻られた。

本来なら神輿にて各町内を渡御されるはずだったわけで、そこが祭りの肝のような雰囲気になって今に伝わっているわけなのだ。

が、人は集まるなというのだから、こうなるのはごく自然のこと。寂しいとも声が出るのは人情として仕方のないことなれど、祭りの芯は宗教儀式として、浅草神社の神様となられている土師中知、檜前兄弟の神霊が浅草の氏子たちのもとへと、お行になられることとが本来の姿なのだから、形はどうあれこれで正解なのだ。

それを商売に託ける性根が間違っているというのだ。ろう。

けど来年は賑やかさが戻って欲しいな。

あなたのなせたことがきっかけで浅草はこんなに栄えていますよと報告できる活気さを見せて返してあげたいと思うのだ。が。

栄枯盛衰

栄枯盛衰は世の常。

古い浅草寺境内の写真や錦絵を見ると、多くの人は勘違いを起こす。五重塔を基準に本堂の位置を想像すると北と南があべこべになって方向感覚がくるってしまう。

それもそのはず、五重塔の位置は今と参道をはさんで反対側に建っていたのだ。

本堂は左奥。真ん中の大きな建物は今の宝蔵門。赤い矢印が江戸期の五重塔だ。

樹齢から見ればそれなりの年輪をもつイチョウの古木。火災の類焼を抑える役目とは言え彼の大戦の災禍は古墨も容赦なく燃やした。子供の小さかった頃はよくかくれんぼをした。子供が二人くらいならスッポリ隠れられる。

寺の裏側に回ってもイチョウの木が守る。

けど国宝の本堂は浅草っ子の目の前で焼け落ちた。昭和20年3月10日。東京大空襲。

浅草神社の玉垣を読みながら歩を進めると当時の栄えが目に飛び込む。

栄枯盛衰の博物館。。。

ここからだとわかりにくいけど、人はそこそこ多い。若い方たちが。

今朝の浅草寺

毎月一日は浅草寺境内をお掃除させていただいている。

ここ最近、靖国神社の昇殿参拝には行くことができないので、月替わりは浅草寺の朝課と境内の清掃で切り替わる感じがする。

けれど、このところの騒動で浅草の現状は静寂を保っているわけで今朝はどうだろうと内心ドキドキしながら本堂に向かった。

朝でも昼でもおんなじ光景の仲見世ストリート。。。

浅草寺点描

冬時間の勤行に合わせて朔日は浅草寺境内の掃除を行う。

地元の商店主立ちによる恒例の行事は何十年続いているんだったけ・・・

TONが30代前半からのお決まりコースなのだから三十年以上続いていることは確かなことだ。

いつも朝ランでは五時起きなのだから6:30の勤行なんて軽い軽いと油断したのが間違い。二度目に目が覚めたのが6:30。

慌てて走って雷門をくぐると、昨日まで飾られていた正月飾りは綺麗さっぱり片付いて目通しがすっきりとしていて物足りないくらいの空間が広がっていた。

五重塔前でお辞儀をする人は数が少ない。

する人は、そこがどういう場所なのかを知る地元の人と見た。

もうすでに観音経が始まっていた。本当はその前の声明が朝を告げるにふさわしい響きを感じて聴いていたいところなのだが既に時遅し。。。

本堂内は撮影禁止なので、美的に衝動に駆られるのだがおとなしく導師の手元を伺うのみにした。

勤行が終われば、それぞれチリトリと箒を持って携帯に散らばる。

今日は生憎と言ったらよいのかなんなのか、清掃が行き届いていてゴミひとつ見当たらない。

TONはいつもの持分(自分で勝手にそう思っている)母子地蔵内を履き残した隅を突っつきながらくまなく掃き清める。

満州からの引揚者の悲惨さは伝え聞くが、戦争体験を持たないTONでも、母子の表情に胸を突かれる。何度繰り返し見ても・・・

二尊仏の背には江戸期の阿弥陀如来を始め地蔵が並ぶ。

こことて以前は朽ち果てることが目に見えて進んでいた箇所だが以前の貫主猊下の時代に全て環境整備されておまいりしやすい姿に戻った。

浅草寺本堂の重奏な屋根にも関わらずどことなく軽快なのはそのアールのうつくしさからくるものなのかな等と思いながら目を凝らしていると今は邪魔者にされてしまっている鳩たちが「すんません」と数羽、羽根休めをしているのが遠望された。

もうちょっと左に寄ればあったかいよ。。。とのテレパシーは通じなかった。

掃除はそこそこに終了。

一緒に歳を重ねてきた先輩たちと茶話会だ。

ちなみに、このお茶を提供している浅草駅前の増田園の三代前は、大砲の弾を作り水戸藩に納めていた。勝海舟とも縁浅からぬ家柄なのだが戊辰戦争後、静岡に移り住み食い詰めた侍たちのために茶畑経営を始めこの商売になったのだとか。

聞いてみるものだ。。。

駒形堂の大祭でした

今日は駒形堂(馬頭観音様)のご縁日の中でも一年を通じて一番の大祭でした。午前中は掃除から始まって、用意、案内、片付けと昼までほぼ休みなし。

最後に法話があり、観音菩薩のご示現にまつわる内容でした。聴衆はぐんと年齢の高い、お坊さんよりも先輩方ばかり。昔は二百人くらい集まったとか聞きました。今日は70人くらいかな。

対機説法が仏の姿とすればもう少し砕いたお話でよかったような気もしたTONでありました。とにかく暑い中じっと聞かれているのですからね。笑いがほしいのはTONだけではないでしょう。

ようやくお参りに行けた。。。鹿島神宮。

地元警察の交通課の企画で成田山新勝寺に行きました。交通課だけあって安全祈願です。

昼食を終えて御堂のいくつかを散策したあとは、さらに東進して鹿島まで足を伸ばしました。実は鹿島には縁が深くて、といっても10年ほどのご縁。せっかく鹿島にご縁があるならば、鹿島神宮に行きたいと何度か足を運んだのですが、どういう訳かせいぜい一の鳥居前までがTONの限界。いつもUターンばかり。

そんな10年を無駄?に過ごしていたら突然降って沸いたかのように計画が持ち上がったというわけです。鎮守の森は外側から何十回となく眺めることはあっても、一歩踏み出せない。そういうことってあるよね。

で、ついに鳥居をくぐることができた次第です。

鹿島神流の本拠地。背筋が自然とすっと伸びるのがわかります。霊気を鼻からめいっぱい吸い込み口から細く吐く。

参道も実に素朴。人がいなければさらに良かったけどそれは贅沢。

奥宮まで歩きました。

桧皮葺のなんとも質素なお宮。けれど大変重要なお宮です。

さらに奥に進むと道は二股に分かれ右に進むことにしました。

要石。

要石といいます。

かの水戸黄門がどレほど大きいのか掘り起こしたのだそうです。が、人の背丈以上に掘っても全体像は現れない。

御手洗の池まで。

時間があれば池の畔りにある茶屋も目的の一つではあったのですが、また次にしましょう。

こんこんと枯れることのない水源地だそうです。

水が湧き出ていれば、何も考えずに手を伸ばして口にするTON。

それを見ていた観光客が見かねて、「飲む時は煮沸してくださいと書いてありますよ」だって。ま、大丈夫でしょ。何度そんな現場に出くわしたことがあるか。

柔らかい甘い水でした。

おまけ。

鹿島猫。

柳橋界隈てくてく

毎朝のラン、北に向かうのに少々飽きて、今朝は南に向かうことにした。浅草橋のあたりにあった浅草御門が江戸時代までは浅草の南域にあたり浅草橋から先がお江戸でござる。つまりここから北側が浅草と呼ばれる地域になる。

柳橋物語で知られる柳橋はここ神田川が隅田川に注ぐ最後の橋である。

花柳界の幕も降りてしまってはいるが、見番跡や柳橋芸者さんたちがお参りしたであろうお宮を見ながら走るのも乙なものである。

南行き朝ランの目的はここ東京慰霊堂。

小学生低学年の時に存在を知ってとにかく行きたかった。東京に住んでいの一番で尋ねた場所だけに思いも格別なものがある。とにかくきれいになりました。我が事のように嬉しい。

震災記念堂として建立された施設だけに、賽銭箱には「震」の文字が浮き彫りになっている。迂闊にも気づかなかった。