





TONちゃん的視点によるTONちゃん的日記です。
TONちゃんの勝手な思いをいつも考える、お客様のこと、浅草念珠堂のこと。。。
そうだったのだ。
10年前の今日を思い出した。石巻の猫島に行った日だった。
浅草から10tトレーラーで大猫のオブジェと支援品を持って商店会の仲間と藝大の院生とで足を伸ばしたんだった。
人で賑わっていたであろう石巻駅前のスーパーも商店街も地盤沈下と津波と内水の影響で見る影もなく荒れ果て、小高い丘の上に不規則な石ころが転がっているかのように遠目に見えたものは凝視すれば墓石の成れの果てだった。子供たちが渡っていたであろう小学校前の歩道橋はその上部までゴミが引っかかったままだった。
夕べ車内で仮眠した石巻港の渡船場で朝眼を覚ました時の光景の凄まじさは生涯忘れることができない。
大好きな潮の香りも流れ出たオイルと相まるとこんなにも嫌な臭いに変化するとは、凄まじい光景と相まって記憶にしまいこまれた。初めての経験だった。
でもまだたった10年前の話か。。。
今日はお彼岸の中日。
お日様が真東から真西に沈む。今日を境に昼夜の時間が逆転していく。
もともと仏教には彼岸という概念はない。まして先祖供養などという概念もない。が、日本の古くからの習慣(縄文のころからの)が仏教にとりいれられていくことで仏教の専売特許のようになりつつ外国の神様そのものが受け入れられていったはしごの文化だ。
自分の家系を代々遡って図に表したことがある。
40年ほど前、戸籍法の規定で80年以上の保管義務が役所になくなると知って、慌てて近くの役所の戸籍係から、親の故郷の役所の戸籍係に走りまわった思い出がある。
原戸籍の写しをもらうはいいが、これが難解甚だしい。当時の役人たちの達筆な文字を読み解くところから活字になれた現代っ子の目にはなかなかのものであった。
が、読み進めていくとこれが至っておもしろい。一人の人生の概略がほんのりと読めてくる。
何処の何人兄弟の何番目の生まれでいつ嫁にはいり、いつ出ることとなる。読み進みずに書き写すうちにすっかり虜になった。歴史小説を読むよりよほどスリリングだ。
私という結果が、最下部に置かれる。そこのひとつ上段に父と母がいる。その上段に父方の祖父と祖母がいて、母方の祖父と祖母がいる。それぞれが精神面までは読み取れないが(兄弟関係や家族状況を想像すれば性格的なところはおおまか理解できるが)、その大まかな生きた証は伝わってくる。
大正期の祖父母の代まででも7人。戸籍で読めるのは江戸末期からだから7代254人ということになるわけで、一人欠けても私は生まれてこない。
そんな調子で考えていくと天下分け目の関ヶ原の時代で20代前で2,097,150人。
室町時代あたりで30代として 2,147,483,646人。20億人を超える。
その中に栄枯盛衰があっただろう。どんな生き方をしたのか知りたくもあるが聞きたくないこともあるかも知れない。ただ、これだけの人々の血のバトンタッチの末に「私」があるということなのだ。
環境与件は遺伝しないとTONの学生時代の生物の授業では教えられたが、現代科学はとっくにそうした考えは破綻して、環境与件もDNAにしっかり書き込まれているのが常識になっているようだ。私の中の深層部を紐解けたら何十何百何千どころではないご先祖様の生きた証が読み取れるようになるのかもしれない。
まずはともあれ、お線香を手向けなくちゃ。
何がいる。
何かいる?
あれだけ世間を賑わした鬼滅の刃ゆえにさぞかし多方面に渡ってのコラボ商品が雨後の筍のごとくだろうとタカをくくっていたのだが、TONの業界ではどことなく大人しい。
何度かお線香ありませんかと鬼滅の刃を謳うお香を探しにこられたお客様がいらっしゃって、見たことないことを正直にお伝えした。
過去には、龍馬伝や真田幸村や西郷どん等々のコラボ商品を販売させていただいた経験から、これだけ世間を騒がせたんだから、コラボが出ないはずはないだろうとタカをくくっていた。
ネットで見たのですがおいていませんか?の声が度々耳にするようになって、こちらの勉強不足かと思うようになった。調べた。あった。
メーカーと企画会社のコラボでダイレクトにその名を使えるのは一社だけ。しかも今回は直売のみ。ということがメーカーへの聞き取りもあってようやく理解できた。これでは手が出せないじゃん。
でもね、商魂たくましくお香メーカー各社はやってましたよ。
えらいね~~。たいしたもんだ。
でもどこも藤の香り。
TONは映画も漫画も見たことないから藤の香りをモチーフにするのかわからない。
なんて人のこと言ってるけど。。。。ね。
こんなのも作っているんだよ~~~ヽ(*´∀`)ノ
お寺訪問に忙しくしていたころのだ。
もうインクが使えなくなっていたけどどうしようかな。自腹で何本も買ってこれたんだからまだまだ沈香も白檀も材料が豊富にあった時代だったんだよね。
今じゃとてもじゃないけど作れないや。
おはようございます朝ドラのエールが実質今日で終了。ちょっぴりロスとなる。
主人公の懐古の中で音楽が内側から溢れてきて譜面に写すだけなんだ。
若い学生(まぁ学生は若いか・・・)が、隠遁し音楽から遠ざかっている主人公裕一の家を訪ね、どうして新しい曲を書かないのかと、問い詰める場面があった。裕一の一言「音楽は頭の中であふれ出ている。でも余生は自分の中で楽しみたい」という件に、ふと僕の好きだった新宿のお寺の庵主さんを思い出した。
庵主さんは音楽家ではなかったが旋律が天空から燦々と降り注がれ溢れ出す人だった。
音符も書けない中、小学生用の楽譜に女学校時代の音楽の授業内容をたぐりなががら、つたなくも譜面に落していった。
書き留められなくて何曲も無駄にした。一流の作曲家、声楽家、文化人を驚嘆させる音律を生んだ。洋の東西をも越えて感動させた。
天賦の才能とはそういうものなんだなと傍から見て教えられた。
神仏を越えた超宗教の曲作りだった。ゲーテの詩をのせることもあった。子供向きの曲に特に熱心だった。もう十年早く世に出したかったと本人は事あるごとにTONに漏らした。崩れいく現代人の情操に警笛を鳴らしたかったのだろう。天才とは頭の良い人を指す言葉ではない。天から与えられた、預かった才能ということ。そうしたものはやっぱり世の中に出さないといけないんだと思う。
あなたにとっての天賦の才はなんでしょうかと問われてるみたいだった。さ、今日もがんばろ。
夏は木の素材のものは極力避けてる。
好きな香木も暑い季節は家でゆっくりしている。
この季節になるとそろそろ懐かしくなってくるのだ。
四半世紀はとっくに越えているのにプンプンしている。腕につけたとたん冬だ。冬が来たと脳が勝手にギヤチェンジしてくれる。
沈香独特の特性は鎮静効果にあることは案外知られていない。
昨今のコロナ騒動でイラつく気持ちをこれに頼ることのありませんように。。。と願うTONなのだ。
ここのところ膝も腰も、少し走るだけで痛みが来るようになってしまったので、ウォーキングでずっとごまかしている。が、やはりスキあらば走り出したいTONなのである。
父親の他界した歳を越えるのに平々凡々とした生活をしていては越えられそうにないと我ながらの思い込みから始まった朝ランも気が付けば15年になろうとしている。
小学校5年の時、初めてのマラソンの授業があるのに朝飯も取らずに出かけようとする愚息に牛乳ぐらい飲んで行きなさーい。と声をかける母親の言葉を忠実にも履行して、ゴクゴク慌てて飲んでいった瓶牛乳。ゴールを目の前に、あと数メートル・・・というところで、公衆の面前で、グランドにぶちまけたあの忌まわしい記憶を払拭するうえでも、是非とも消し去らねば。トラウマ消去の意味も心の奥底にあったTONの朝ラン。
今日は一つのお別れをした。
相棒の一つとのお別れ。何キロ走ったろう。一ヶ月180kmのペースだった時だから2000kmはゆうに超えている。1年で卒業じゃないからね。それを4年以上で履きつぶしてる。靴底も剥がれてボンドで留めてなんてだから、もうぅぅぅ悲鳴を上げていたのだろうと思う。の。さ。
考えればとっくにお払い箱なのかもしれない。けど相棒だから。。。
秋の彼岸になると決まって子供の頃の墓参りを思い出す。
TONの父親はTONが3歳の時に亡くなった。
押しかけ女房だったという母を肯定的には取れなかった父の実家とはほぼ疎遠状態だったのだが、こと人の生き死にの問題となれば、一肌脱いでくれるのではとの母の予想を裏切るかたちとなった。
遺骨をどこに収めるかその場所がない。
著名な大学を主席で卒業した前途有望だった夢多き父の死に様は人からの借金には快く応じない銭まで調達して出したおかげで文字通り無一文状態であった。すべてを母が肩代わりしていたという有様で、葬儀を終えた時には500円札一枚が一家の全てであった。
もちろん墓など買う余裕どころか、明日からどう暮らして良いか途方にくれた。
下げたくない頭を下げに実家に出向いた。嫌味の数々を受け流しながら父の遺骨は本家のカロウトーの片隅に預けられる形となった。結局そこが13回忌を迎えるまで菩提を弔う安着の場所となったのである。父としては肩身の狭い思いをしただろう。母の口癖だった。それは同時に、実家への複雑な思いを代弁する母の想いの言葉だったと今では思う。
春の彼岸、秋の彼岸と田無にある父の実家への墓参りが始まった。
TONが覚えているのは5歳のこと。二つ上の姉に手を引かれその姉の手を母が引き、まだ西武線が高田馬場を始発にしていた頃であり、山手線に乗り換える必要があり、渋谷駅の迷路の中を右往左往していた母の心細さが電信のようにTONの心にも伝わった。
あとは断片的にしか覚えていない。
ただ、当時生活の足となっていた東横線とははるかに垢抜けせず田舎の電車だったこと。
風景も田舎の風景の中をとろとろ走っていたこと。目的の花小金井の手前の駅で時間調整のため長く待たされていた記憶。ホームから改札へは駅内踏切があったこと、墓前の花を買った駅裏の花屋がなんとも田舎臭かったこと。駅前は未舗装のまま、雨の日の墓参りの時は足元に難渋した、などなど、なんとも田舎に来たなぁと子供心の印象だった。
父の学生時代は一山越えて出かけると、たぬきが出てきて先導してくれたという話があながちでたらめではなかったんだなぁと十分納得できる環境だった。
はじめの一、二年の母の付き添いも、そのうちお前たちで行っておいでとなる。それこそ大海原を羅針盤一つで大航海した船乗りの心情だ。。。
今思えば居候の立場でしかない父の墓参をするたびに母の思いはいかばかりだっただろうか。それが理解できるまでは数年要した。TONにとってのお彼岸の墓参は父への供養もあるけれど、母の心情のトレースでもあるのかもしれない。
秋のお彼岸を迎えると、川辺に咲いてた彼岸花の赤色と田無の駅の待ち時間、突き抜けた青い空に遥か高所をトンビがのんびり円を描いていたのんびりした風景が脳裏に浮かんでくるのだ。
昨日いらしてくださった高野山真言宗の若きお坊さんと立ち話をしていると、「TONちゃんってあなたですか?」と尋ねられる。
「はい。そうです」と素直に答えるが、話はそれでおしまい。
風体と文章が違うなぁと思われたのか、よくわからないが、このブログを読んでくださっていることは理解した。
目黒の若旦那もよくチェックしてくれているし、観音様裏の某青年もしっかり見ていてくれて新作をアップすると、ほぼ間違いなく次の日には仕事帰りに見に来てくれる。整体師のY氏や坊さんになったTさんやあの人やこの人様々な分野の方から「読んでますよ」と声をかけられてしまうと、つい力が入ってしまう。
けど読み返してみると、ここ最近はお空の写真ばかりが目立つ。撮りも撮ったりで12年間分蓄積されているのは我ながらしつこい奴じゃの~と思えなくもないけれど、本当はもっと書く事がここ浅草には山ほどあるのだ。それに念珠や仏像の新作もそれなりにあるにはある。
が、ここのところコロナ騒ぎの余波を受けて、新作を作る遊び心が湧いてこないかったのも正直なところ。
困ったものだ。ん?何を困ったものだ?というのだろう。書く気持ちが萎えていたとしたらコロナごときに負けていいのか。と。ね。
ふっと思いついた次第。冗談じゃあないよ。。。。