おもしろいものだ

TONは横浜生まれ横浜育ち。
新しいもの好きで何でも受け入れてしまう根っからの浜っ子だ。
故郷が大好きでそこを出て暮らすようになるなど夢にも思っていなかった。

横浜のような中小都市にはチンチン電車が良く良く似合う。
産まれてから町を出るまでの24年間レールのきしみ音を聞かない日はなかった。
故に高校二年の時、浜の市電のご臨終(全廃)に立ち会うこととなった。
さらに言えば滝頭車庫行き最後の最後の便つまりこよなく愛した横浜市電の最期に乗り合わせた。

そこから鉄の血(路面電車愛の)の火がついたのだ。
去りゆく鉄路を毎日カメラに収め車庫の変貌を記録に納め横浜に痕跡が薄くなると全国に死を延ばすようになった。生憎そのころはもう路面電車斜陽の季節で、旭川電気、山陽電鉄、福岡市内線、、、路線縮小は数え上げたらきりがない。地元都電の旧市電は全廃(荒川線は数えません)に始まってネットワークが肝の路面電車網が縮小されれば利便性はけた違いに悪くなるのはわかりつつも削っていく。

そんな流れを危惧する学者や市井の人々の声もあるにはあった。
けれどなんの抑止にもならなかった。論調の僅かの変化すら起きなかった。

一度非合理、無駄と烙印されると、とめどもなく負のパワーが働く。
公共団体が運営していた都市はほぼ壊滅していった。
将来展望をどう考えたのだろうか?庶民の足をどう考えたのだろうか?平面で乗り降りできる都市交通なんてそうやたらあるものではない。バスに一括して任せればよい等という乱暴な論調も垣間見えた。

時代が変わった。

でいいの?

宇都宮市がLRTを成功させた。
初年度で20億円の黒字を出した。
さらなる延伸計画が持ち上がり実行されようとしている。

もうこうなると止まらないだろう。

地方鉄道の廃止で市民の足の確保に苦しむ都市も、インバウンドで市民の足も確保できなくなっているあの都市も、自動車の規制に頭を抱えているあの都市も。。。次々に名乗りを上げている。

でも、、、一からの出直しってどれほどのエネルギーが必要なんだろう。
赤字路線だから切って捨ててきた公共路線。用地の取得からだからねえ。それでも札幌や函館鹿児島や熊本は縮小させながらも生きながらえた。
民間路線は涙ぐましい努力をしながら何とか持ちこたえてきた。

さぁこれからだ。

論調が変わるってこんなものなのだろう。。。。。

引っ越してみてわかってきたこと

最近30年暮らしてきた雷門の自宅を修理のため仮住まいへと引っ越した。どれくらいの期間移っているかは不明だが、そのまま仮住まいで朽ちるかもしれない。縁起の悪い話はするなと怒られそうな気もするが、人間いつどこで何があるかわからないと思って生きていなきゃならない。こっちは嫌でもあちらの世界の事情ってものもある。
だからもうここには戻ってこれないかもしれないと思っているくらいがちょうどよい。心構えはいつも刃の上と思いながらいるTONなのである。

いや、こんな事を書きたくて書きだしたのではなかった。

何を書きたかったかというと、仮住まいにいってからも旧宅の整理にほぼ毎日駆り出されて手料理を食べる暇がない。ということをこれまた愚痴るつもりもないのだが、いろいろ見えてくる事が多い。ということを書きたかった。

なかでも食事は外食が多くなった。
夜の繁華街、食堂楽の町浅草に住んでいるのに外食はまずしてこなかった。
だから浅草はどこが美味しいの?と聞かれても答えに窮する。
だって落ち着かない店では食べる気がしないんだもの。
気心の知れた店主のいる店なら毎日でも通った過去はある。けれど高い。
毎日続けていたら体にも悪い。
だからおのずとチェーン店の定食屋になるのは自然の理である。

商売人は何処に行っても商売人の性から離れられないようで、店構え、店員の態度、食い物の扱い、、、等など五感がフル活動して品定めしている自分に気づく。

どうなのだろう。。。有名な丼屋のカウンターに座り出来上りを待つ。
ドンと座って目をつむりなにも見なきゃいいのに、あれこれ様子をうかがう。
以前は立ちそば屋で見ていたら、ちょろちょろネズミのチュー介がトッピングのてんぷらを食べていて、店員が誰も気づかない。二度と行かなくなった。

お客様の入りは独身の男女が多いように見受けられ、流行っているんだなぁと感心した。
テイクアウトも店内の混み具合とほぼ同数くらいひっきりなし。回転がいいんだ。
「ありがとうございましたぁ」
店員が品物をわたす。
「・・・・・・」
客は仏頂面で受け取っていく。

「ありがとうございま~す」
女性の客にテイクアウト品を渡す。
「・・・・・・」

ん?ちょっとそのやりとりに引っ掛かり料理が出た後もずーっと観察していた。

遅いとばかりにテイクアウト品をかっさらう様にもぎ取っていく者、食べ終わったのだろう、携帯を見ながら何の反応もなく当たり前のように席を立っていく者、そこにご馳走様の一言もありがとねの一言も授受しない。言葉のキャッチボールを避けているようにお見受けした。

下町に育ったTONには口から入る肉の糧の旨いまずいはもちろんのことだが、頑固寿司屋のオヤジでもなければ(それでもそれなりにあるものだが)心のキャッチボールがその店の愛着度、品格、重要度となっているのだ。

なぜかなぁ。それが今流なのだろうか。。。

勿来 50年前の記憶

この季節になると小野新町から勿来までの阿武隈地方を走った記憶がよみがえる。


勿来に出る川沿いというか谷あいの国道には、見事な鯉のぼりが谷をまたいで何百匹も吊るされていた。今ではあちこちで見受けられるようになったが当時は思い当たらない意外な光景だった気がする。

そんな勇壮な姿に感動したのを昨日のことのように記憶している。


自転車は決選用に作ってもらったズノウのコロンバスモデルに、当時出始めたばかりのパナソニックのWO(ワイヤードオン)を履かせた。
旅なのだからWOのタイヤにしたのだ。快適なツーリングになるだろうと予測。
が、これがいけなかった。

100㎞や200㎞ならチューブラの練習用のタイヤで十分だったし、和気あいあいのクラブランのポタリング程度の走りなのだからなんでわざわざ、しかもホイールも直前にWO用に組み直し(もちろん自分で)て、何でも新しもの好きのくせが出た。だれも使用したことのないニューバージョンを練習なしでいきなり本番に持ち込んだ格好だ。
この報いは二泊三日の道中、繰り返し繰り返し受けることとなる。。

パンクに次ぐパンク。五回や六回で済む話ではない。泣きに泣かされ続けることとなったのだ。

快適に見えるがあのカーブを曲がればまたもや未舗装路。

旅の最中の鬱積を見事に消し去るほど、雄大で清々しい光景が、谷わたりの何百匹のこいのぼりだったことは間違いない。途中の記憶は断片的にしかおぼえていないのだが、ご褒美の谷渡りの幟の清々しさだけはしっかり記憶されている。

水先案内人だったんだろうか。。。

古銭集めが、中3までの何よりの生きがいだった。
いつも大きい黒いカバンに全財産を詰め込んで行った先々で見せびらかす奴だった。
高校や大学の文化祭に古銭部なんてのがあるとそれとばかりに押し掛けて、展示しているコイントを比較対象していたのだから、消されても文句言えない嫌な奴だったろう。。。まぁそれはこっちに置いてっと。。。

お金が好きで好きでと言っても銭ゲバではなく純粋にデザインに魅了されていたということだ。
なぜなら偽造防止を考えると貨幣が発行された当時において最高峰の技術と文化の結晶をバックに創っているからである。だから気づくか気付かずかは知らないけど財布の中にはだれもが最高の美術品、工芸品を持ち歩いている事になる。
日本人とはなんと幸せな民族だろうか。そこに気づいているかいないかはあなたのしだいですが。

お札の中では、いの一番にTONが好きなのは神功皇后の一円札。
日本銀行券ではなく政府券なのだがバランスがとれていて実に美しい。お雇い外国人のエドアルドキヨソネの版ではあるが、日本では摺れないのでドイツで作られた。そういう意味では純粋な日本製とは呼べないのだが、最初の日本の顔となるお札の肖像画に女性を選んだと言うところが何とも面白い。残念ながら神の耐久性の問題で短命に終わってしまった。紙の素材を国産の楮を素材にしたことで今に至る紙幣の材料が確立した。

今は神功皇后を知らない人が多すぎる気がするのが寂しいところだ。第十四代天皇、第十三代仲哀天皇の皇后で応神天皇の母ある。当時のい日本人はだれもが理解していたわけだ。
ちなみにだが我がTON一族の名字は三韓征伐で海を渡るときにその水先案内人をしたことで功績に対して下賜された名だそうだ。ほんとかな。

明治の世になって太政官札は別にして西洋式の技術で初めて西洋式印刷されたのが神功皇后というのが天照大御神の国、やはり日本は女性の国だと言う事なのだと思う。
SDなんちゃらなんて最近外圧に負けて法律が成ったが、本来なら日本には関係ないのだよと思っている。
日本人が日本を忘れてしまうこと、自信を失う事が怖いと思う。。。。

いつのまにか自分は。。。

いつの間にか少女はは、TONが昔好きだった揚水の歌。
その話ではなくいつの間にか自分は。。。はなのだ。

自分というのは一番わからない存在。鏡に映る自分はホントの自分ではないし、最近は動画が簡単に使えるからと言っても、一から十まで全て映しきるなんてよほどできることではないだろう。じゃどうしたら自分を知るの?と言えば相対的に観察するしかない。人間つまり「じんかん」で相手に映し出される表情や人間関係の中に自分を映し出すしかない。

昨日はおふくろの13回忌を行なって暫くぶりに姉夫婦とその子供達夫婦その子供たち姉からみれば孫たちが全員勢ぞろいした。
コロナの時代もあって12年前の母の納骨式に勢ぞろいした時以来の顔合わせとなった。

以前は姪や甥たち、その各親がいて小さい子供達がそれぞれいて、出っこみひっこみで、まだまだ大人の責任が大きかった時代の風景。
それがいつのまにか大人の集団に成長していた。
自分の所も入れれば20人近くがみな遠い親戚ではなく母の下何とか育ったたった2人の姉弟から出てきた群れなのだと思うと感慨深かった。

何処の人もそんな風に思うのかもしれないが・・・。
前の晩偶然出てきた親不孝していたころ母からもらった手紙を改めて読み返した。
「無学な親だけど2人にかけた愛情はだれにも負けない」・・・昔思わず落涙した事を覚えている。
そうなんだ。わかってる。そんな思いが姉に伝わり僕に伝わりして今がある。
だから集まった20人の群れは母の思いを継いだ一族となっていくのだろう。

お山もそろそろおしまいか。。。

富士山の閉山は今月10日。
今年ほど富士登山に問題提起の多かった年はないのではなかろうか(TONが知らないだけかもだが)。
弾丸登山。海外からの観光客による無謀とも言える軽装、行き当たりばったり無計画な登山スタイル。ゴミの問題。。。
山開きの時期に頂上付近での登山者の事故?死がしょっぱなから暗雲を投げかけた格好だった気がする。

TONの記憶に間違いがなければ、富士山が以前ブーム(4、50年前の話し)となった時、日本人の若者がハイヒールで入山したりの軽装登山は問題視され週刊誌などをにぎわした記憶がある。外人ばかりを責めるわけにはいかないような。。。
かく言うTONも似たり寄ったりの記憶がある。

半ドンのあった時代、当時は仕事が終わる土曜日の夜に富士山に向かい、五合目を夜中に出発する今で言う弾丸登山真っ盛りの時代。
とにかく人が多かった。押されるように前に進み道に迷うことなどあり得ないコンベアのような始末。8合目9合目で疲れれば、そこらでごろんと横になって星空を眺め、下界からずっと続く登山者の懐中電灯の明かりをボーっと眺めながら疲れを癒しまた頂上めがけて登りだす。
団塊以上のお兄さんお姉さんたちには青春の記憶としてあるのではないだろうか。ぜったいあるはずだ。

TONはおまけに愛車を担いでいた。12㎏。今時のマウンテンバイクなどなかった時代。サイクリング車から余分なものを外し、ドロップハンドルをオールランダ―バーに替えただけの代物。
担いでいるとどこを走るの?と登山者に何度も尋ねられる。けれど走れる所は何処でも走ると応えた。現地に入ると案外登りでも走れる所は随所にあった。一番の目的は下りだったのだが。。。砂が。。。深い。


頂上から9合目に向けて走り始め。。。このあと空中一回転。

富士登山に規制がかかるとしたら、サイクリストにもかかるようになるんだろうな。

浅草のそら

むか~し技術屋だったころの話し。
まだ新米技師のくせに、計画から施工まで一人でできる仕事をやらせろーっと談判してまかせられた仕事が河川計画だった。

その川の流域面積を出して、流出係数を決め(アスファルトいだらけの都市部と田園地帯では降った雨が川に流れ込むスピードが違うのでそれを考慮する)そんな係数を考慮して川の設計断面を決めていくのだけど、そのもとになるのは計画降水量。
一時間に何mmの雨が降るかを過去のデータ―から読み解いて決定する。TONは絶対に洪水で被害を出したくないと時間80mmで設定した。それでも少ないと思ったのだが。。。
設計を凛儀してもらうと見事先輩技術者にNOを食らった。係長も課長もNOだった。

なぜ?と問いただすと「経済設計っていうのがあるんだぞ}だった。カチンときた。
人の命にかかわることに何が経済設計だ。と納得できなかった。延々とディスカッションという名の口論となった。見かねて技術専門の上司まで輪に加わって、TONは係長預りとなってしまった。
「何mmの雨が降りました」と大雨の情報をテレビで耳にすると未だに当時の悔しさが思い出されてしまう。もう50年近く前の話なのにね。
上さんにいたってはまたその話?と聞いてくれなくなった。
昨今は100mmを超える雨が当たり前のように降るようになってしまったからね。TONの先見の明?まさかね。。。

ひろいものから

たまたま目についた言葉。
人生は二度ない。
どうせ生きるのなら一秒でも早くこの事に気づきたい。。。

スティーブ・ジョブズが残した最後の言葉

他の人の目には、私の人生は
成功の典型的な縮図に見えるだろう。
しかし、仕事を除くと
喜びの少ない人生だった。
人生の終わりには、富など
私が積み上げてきた
人生の単なる事実でしかない。
病気でベッドに寝ていると
人生が走馬灯のように思い出される。
私がずっとプライドを持っていたこと
認められることや富は
迫る死を目の前にして
色褪せていき
何も意味をなさなくなっている。
この暗闇の中で生命維持装置の
グリーンのライトが点滅するのを見つめ
機械的な音が耳に聞こえてくる。
神の息を感じる。
死がだんだんと近づいている。
今やっと理解したことがある。
人生において十分にやっていけるだけの
富を築き上げた後は
富とは関係のない
他のことを追い求めた方が良い。
もっと大切な何か他のこと。
それは、人間関係や、芸術や
または若い頃からの夢かもしれない。
終わりを知らない富の追求は
人を歪ませてしまう。
私のようにね。
神は、誰もの心の中に
富によってもたらされた幻想ではなく
愛を感じさせるための「感覚」
というものを与えてくださった。
私が勝ち得た富は
死ぬ時に一緒に持っていけるものではない。
私が持っていける物は
愛情に溢れた思い出だけだ。
これこそが本当の豊かさであり
あなたとずっと一緒にいてくれるもの
あなたに力を与えてくれるもの
あなたの道を照らしてくれるものだ。
愛とは何千マイルも超えて旅をする。
人生には限界はない。
行きたいところに行きなさい。
望むところまで高峰を登りなさい。
全てはあなたの心の中にある
全てはあなたの手の中にあるのだから。
世の中で、一番犠牲を払うことになる
「ベッド(賭け)」が
何か知っているかい?
シックベッド(病床)だよ。
あなたのために、ドライバーを
誰か雇うこともできる。
お金を作ってもらうこともできる。
だけれど、あなたの代わりに
病気になってくれる人は
見つけることは出来ない。
物質的な物はなくなってもまた見つけられる。
しかし一つだけ無くなってしまっては
再度見つけられない物がある。
人生だよ。命だよ。
手術室に入る時、その病人は
まだ読み終えていない本が1冊あったことに気付くんだ。
「健康な生活を送る本」
あなたの人生が
どのようなステージにあったとしても
誰もが、いつか人生の幕を閉じる日がやってくる。
家族を大切にしてください。
パートナーを大切に
友人を大切にしてください。
そして自分を丁寧に扱ってあげてください。
人を大切にしてください。

浅草の空 79回目の終戦記念日

早朝、寿に行ったついでに雲の様子をパチリ。
ダイナミックな雲が浮かんでいた。今日は79回目の終戦の日。

僕の子供時代は戦争経験者ばかりの中で育ち年中その空気感の中に包まれていた。
横浜の本町辺りには空襲で焼け崩れ焦げたビルがまだ目についたし、防空壕がそこら中の崖面に空いていて、ぼくら子供達のいい遊び場、隠れ家になっていた。それが普通だった。
戦争の話しも兵隊さんたち、銃後の婦人たち子供だった人たち、様々な角度からの情報が氾濫していた。
戦中の話しはしたくない人が多かったような表現があるが、聞くのがうまかったのかTONには何のこだわりもなく話してくれたものだ。ただそれでもまだまだ聞き足りなかったと今は後悔している。そうして聞いてきた耳からの情報によって形作ってきた戦争観と学校で教えられる近代史観にいくつもずれを感じ育つにつれて容易ならないものになっていったのも事実だ。

そんななかの一つには、学生として教科書から学んできた終戦の姿、無条件降伏と教わってきたけど、軍は無条件だけど国としては無条件降伏ではない。全てが無条件に丸めこまれたいきさつも資料をつかんだ。近代史っていかにいい加減なのか。。。と思わされる。

靖国神社に毎月昇殿参拝させてもらってきたけど、この日は一度も伺った事がない。
きっと騒がしいのだろうな。と想像するとどうしても足が向かないのだ。むしろそっとしていたい。

浅草は変わらず騒がしい。

そうだ!母の日。

もうずいぶんあげてなかったな。。。

上さんのお母さんも、TONの母親も震災の後、続けて亡くなってしまったから。。。

仏壇にカーネーションの香りをあげることにしよう。とは思うけど。

目の前で直接受け取ってもらえる方がもっといいよな。。。

受けてくれる人がいると言うことは、幸せなことなんだ。

受け取ってくれて「わー!ありがとう」と言ってくれることは、自分自身が喜ばしいことなんだ。幸せとは人を介して人からもらえるものなんだ。

母にわたせないということがこんなにつまらないこととは。。。。。