懐古趣味2

昨日麦田車庫の話しを書いたら、当時の記憶がわらわらと湧き出してきてしまったので忘れないうちに書き残しておこうと思う。

またも借り物の写真で申しわけないが、柏葉幼稚園は車庫の右に走るこの道の奥になると思う。この道を5歳の姉がぐずる3歳の弟を、おんぶしたり手を引っ張ったりしながら、だましだまし園まで連れて行ってくれたんだと思うと今更ながら頭が下がる。。どうりでいまだに何も反論できないわけだ。

第二の母のような姉も翌年には近くの大鳥小学校に入学した。我がままいっぱいの手のつけられない弟は当然のように園からはドロップアウトと相なった。
その大鳥小学校には、高校時代の親友が通う事になるのだが、不思議やなTONは小学校入学を目前にして六角橋に引っ越してしまい、もしかしたら幼馴染となっていたかもしれない彼との付き合いは高校時代までお預けとなるのだ。
彼はTONと家庭環境が似ていて同年代で母親を亡くし父親と姉との三人暮らし。もし幼馴染だったらさぞ家族で交流していたことだったろう。が、そうはいかないのが人生のようだ。

そんな彼も高校を卒業し、TONの自転車趣味に引きずり込んで二年目の春に自ら命を絶ってしまうこととなる。

そんな事もあった幼年期を過ごしたこの町には思い入れがありすぎる。
生まれはどこですか。と聞かれるたびにめんどくさくて本牧ですと言うと、へ~と感嘆譜が還ってくるのだが、TONはザラリとした感触が心の奥に芽生えるのも否めない事実なのだ。

懐古趣味と言われても

ネットサーフィン(死語?)していたら、琴線に触れる画像に出くわした。
TONの生まれた千代崎町は目と鼻の先。
今は山手トンネルと言うらしいが、TONが幼少の頃は横浜市電の専用随道で唯一バラスト(石ころ)があらわになっている専用軌道の区間だった。
元町側から随道を抜けると下町っぽい町屋の景色に一変する。右側の洋風な建物が市電車庫でTONの母親が勤めていた。

勤めていたと言っても市電車輛の清掃婦として一日中車庫内で車両を清掃していた。

TONは当時この右手奥にあった、柏葉幼稚園に味噌っかすとして姉のお伴で通園していた。
悠長な時代で母子家庭で日中働かなければならないのに困っていると母親が園長に相談すると、園で預かってくれると快く首を縦に振ってくれたのだという。
入園年齢に達していない以上仕方ないが、正規入園ではもちろんないし父が急死してどん底の時代、お金も出せなかっただろう。


そんな親の配慮も知ったこっちゃないひねくれTONは、足が痛いと言っては二つ上の姉におぶってもらいながらのイヤイヤ登園であった。が、帰り道にはこの車庫に寄って母親の働く姿を見ながら時間を過ごせるので、帰り道にイヤイヤした記憶はさっぱりない。
車庫に自由に出入りし、ドアの開いてる車両に勝手に入り込んでは姉と遊びまわっておとがめなしなのだからいい時代だったとしか言いようがない。

なつかしい。。。。。。

借り物の写真なので削除要請がくれば削除したいが、こんな懐かしい写真がWEB上にはアップされているんだな。。。

プロの原点

中学生の時は横浜にある公団住宅に住んでいた。公社の契約会社から年に一度トイレ掃除の係員が掃除に来てくれていた。いい時代だな。。。
その時はたまたま家にいて掃除の現場に立ち会う事になった。よく覚えていないが作業終了のサインを求められたのだと思う。

「綺麗になりましたね」お愛想を言った。
「これなら飲めそうなくらい奇麗ですね」と言うと間髪いれず「飲めますよ」
言うのが早いか、すっと手を便器内に伸ばし、中に溜まっていた水を掬い、目の前で飲んで見せた。

横にいた母と「あ!」っと驚嘆の😱声を同時にあげた。正直驚いた。
「ね!」

プロの仕事を見た気がした。

それが自分にとってプロ仕事の原点のような気がする。

さ、今日ももうちょっとがんばろ。

因みに黒いのはうんちではありません。カッターの刃です。時々カルキ落としをいています

伝法院通りの今

ここ最近、仮住まいのTONはここを時々通るようになった。
ちょうど違法建築の商店を撤去するどうのと新聞紙上を騒がせはじめていたのでどうなるかなと注目はしていたのだが、撤去と決定してからは速かった。
たまたまオレンジ通りから伝法院に向かっていたら向かう先がやたら暗い。ん?

あれ?っと思った。
十数年前、伝法院通りが整備されてからは下の写真のように明るくそぞろ歩きにちょうど良かった。
この右側が全て撤去されていくわけだ。
鎮護堂の前後はもうすでに撤去されていて暗い。夜の街を明るく照らしていた商店や街路灯に代わる妙案があるのだろうか。ちょうどそこだけ京とか奈良の古びた寺院の塀を連想してしまう。
あ!だから暗かったと言うことか(別に京や奈良が暗いと言っている訳ではないので)。

まだ少し店舗が残っていた。

鎮護堂の門周りは40年間手入れできなかった壁が相当痛んでいるようで危なくて近寄れない。
スマホのカメラで撮ったので勝手に感度を上げて明るく見えるが実際は暗い。
そこに商店街があった名残の装飾照明が場違いに存在感を誇示していた。

おもしろいものだ

TONは横浜生まれ横浜育ち。
新しいもの好きで何でも受け入れてしまう根っからの浜っ子だ。
故郷が大好きでそこを出て暮らすようになるなど夢にも思っていなかった。

横浜のような中小都市にはチンチン電車が良く良く似合う。
産まれてから町を出るまでの24年間レールのきしみ音を聞かない日はなかった。
故に高校二年の時、浜の市電のご臨終(全廃)に立ち会うこととなった。
さらに言えば滝頭車庫行き最後の最後の便つまりこよなく愛した横浜市電の最期に乗り合わせた。

そこから鉄の血(路面電車愛の)の火がついたのだ。
去りゆく鉄路を毎日カメラに収め車庫の変貌を記録に納め横浜に痕跡が薄くなると全国に死を延ばすようになった。生憎そのころはもう路面電車斜陽の季節で、旭川電気、山陽電鉄、福岡市内線、、、路線縮小は数え上げたらきりがない。地元都電の旧市電は全廃(荒川線は数えません)に始まってネットワークが肝の路面電車網が縮小されれば利便性はけた違いに悪くなるのはわかりつつも削っていく。

そんな流れを危惧する学者や市井の人々の声もあるにはあった。
けれどなんの抑止にもならなかった。論調の僅かの変化すら起きなかった。

一度非合理、無駄と烙印されると、とめどもなく負のパワーが働く。
公共団体が運営していた都市はほぼ壊滅していった。
将来展望をどう考えたのだろうか?庶民の足をどう考えたのだろうか?平面で乗り降りできる都市交通なんてそうやたらあるものではない。バスに一括して任せればよい等という乱暴な論調も垣間見えた。

時代が変わった。

でいいの?

宇都宮市がLRTを成功させた。
初年度で20億円の黒字を出した。
さらなる延伸計画が持ち上がり実行されようとしている。

もうこうなると止まらないだろう。

地方鉄道の廃止で市民の足の確保に苦しむ都市も、インバウンドで市民の足も確保できなくなっているあの都市も、自動車の規制に頭を抱えているあの都市も。。。次々に名乗りを上げている。

でも、、、一からの出直しってどれほどのエネルギーが必要なんだろう。
赤字路線だから切って捨ててきた公共路線。用地の取得からだからねえ。それでも札幌や函館鹿児島や熊本は縮小させながらも生きながらえた。
民間路線は涙ぐましい努力をしながら何とか持ちこたえてきた。

さぁこれからだ。

論調が変わるってこんなものなのだろう。。。。。

引っ越してみてわかってきたこと

最近30年暮らしてきた雷門の自宅を修理のため仮住まいへと引っ越した。どれくらいの期間移っているかは不明だが、そのまま仮住まいで朽ちるかもしれない。縁起の悪い話はするなと怒られそうな気もするが、人間いつどこで何があるかわからないと思って生きていなきゃならない。こっちは嫌でもあちらの世界の事情ってものもある。
だからもうここには戻ってこれないかもしれないと思っているくらいがちょうどよい。心構えはいつも刃の上と思いながらいるTONなのである。

いや、こんな事を書きたくて書きだしたのではなかった。

何を書きたかったかというと、仮住まいにいってからも旧宅の整理にほぼ毎日駆り出されて手料理を食べる暇がない。ということをこれまた愚痴るつもりもないのだが、いろいろ見えてくる事が多い。ということを書きたかった。

なかでも食事は外食が多くなった。
夜の繁華街、食堂楽の町浅草に住んでいるのに外食はまずしてこなかった。
だから浅草はどこが美味しいの?と聞かれても答えに窮する。
だって落ち着かない店では食べる気がしないんだもの。
気心の知れた店主のいる店なら毎日でも通った過去はある。けれど高い。
毎日続けていたら体にも悪い。
だからおのずとチェーン店の定食屋になるのは自然の理である。

商売人は何処に行っても商売人の性から離れられないようで、店構え、店員の態度、食い物の扱い、、、等など五感がフル活動して品定めしている自分に気づく。

どうなのだろう。。。有名な丼屋のカウンターに座り出来上りを待つ。
ドンと座って目をつむりなにも見なきゃいいのに、あれこれ様子をうかがう。
以前は立ちそば屋で見ていたら、ちょろちょろネズミのチュー介がトッピングのてんぷらを食べていて、店員が誰も気づかない。二度と行かなくなった。

お客様の入りは独身の男女が多いように見受けられ、流行っているんだなぁと感心した。
テイクアウトも店内の混み具合とほぼ同数くらいひっきりなし。回転がいいんだ。
「ありがとうございましたぁ」
店員が品物をわたす。
「・・・・・・」
客は仏頂面で受け取っていく。

「ありがとうございま~す」
女性の客にテイクアウト品を渡す。
「・・・・・・」

ん?ちょっとそのやりとりに引っ掛かり料理が出た後もずーっと観察していた。

遅いとばかりにテイクアウト品をかっさらう様にもぎ取っていく者、食べ終わったのだろう、携帯を見ながら何の反応もなく当たり前のように席を立っていく者、そこにご馳走様の一言もありがとねの一言も授受しない。言葉のキャッチボールを避けているようにお見受けした。

下町に育ったTONには口から入る肉の糧の旨いまずいはもちろんのことだが、頑固寿司屋のオヤジでもなければ(それでもそれなりにあるものだが)心のキャッチボールがその店の愛着度、品格、重要度となっているのだ。

なぜかなぁ。それが今流なのだろうか。。。

勿来 50年前の記憶

この季節になると小野新町から勿来までの阿武隈地方を走った記憶がよみがえる。


勿来に出る川沿いというか谷あいの国道には、見事な鯉のぼりが谷をまたいで何百匹も吊るされていた。今ではあちこちで見受けられるようになったが当時は思い当たらない意外な光景だった気がする。

そんな勇壮な姿に感動したのを昨日のことのように記憶している。


自転車は決選用に作ってもらったズノウのコロンバスモデルに、当時出始めたばかりのパナソニックのWO(ワイヤードオン)を履かせた。
旅なのだからWOのタイヤにしたのだ。快適なツーリングになるだろうと予測。
が、これがいけなかった。

100㎞や200㎞ならチューブラの練習用のタイヤで十分だったし、和気あいあいのクラブランのポタリング程度の走りなのだからなんでわざわざ、しかもホイールも直前にWO用に組み直し(もちろん自分で)て、何でも新しもの好きのくせが出た。だれも使用したことのないニューバージョンを練習なしでいきなり本番に持ち込んだ格好だ。
この報いは二泊三日の道中、繰り返し繰り返し受けることとなる。。

パンクに次ぐパンク。五回や六回で済む話ではない。泣きに泣かされ続けることとなったのだ。

快適に見えるがあのカーブを曲がればまたもや未舗装路。

旅の最中の鬱積を見事に消し去るほど、雄大で清々しい光景が、谷わたりの何百匹のこいのぼりだったことは間違いない。途中の記憶は断片的にしかおぼえていないのだが、ご褒美の谷渡りの幟の清々しさだけはしっかり記憶されている。

水先案内人だったんだろうか。。。

古銭集めが、中3までの何よりの生きがいだった。
いつも大きい黒いカバンに全財産を詰め込んで行った先々で見せびらかす奴だった。
高校や大学の文化祭に古銭部なんてのがあるとそれとばかりに押し掛けて、展示しているコイントを比較対象していたのだから、消されても文句言えない嫌な奴だったろう。。。まぁそれはこっちに置いてっと。。。

お金が好きで好きでと言っても銭ゲバではなく純粋にデザインに魅了されていたということだ。
なぜなら偽造防止を考えると貨幣が発行された当時において最高峰の技術と文化の結晶をバックに創っているからである。だから気づくか気付かずかは知らないけど財布の中にはだれもが最高の美術品、工芸品を持ち歩いている事になる。
日本人とはなんと幸せな民族だろうか。そこに気づいているかいないかはあなたのしだいですが。

お札の中では、いの一番にTONが好きなのは神功皇后の一円札。
日本銀行券ではなく政府券なのだがバランスがとれていて実に美しい。お雇い外国人のエドアルドキヨソネの版ではあるが、日本では摺れないのでドイツで作られた。そういう意味では純粋な日本製とは呼べないのだが、最初の日本の顔となるお札の肖像画に女性を選んだと言うところが何とも面白い。残念ながら神の耐久性の問題で短命に終わってしまった。紙の素材を国産の楮を素材にしたことで今に至る紙幣の材料が確立した。

今は神功皇后を知らない人が多すぎる気がするのが寂しいところだ。第十四代天皇、第十三代仲哀天皇の皇后で応神天皇の母ある。当時のい日本人はだれもが理解していたわけだ。
ちなみにだが我がTON一族の名字は三韓征伐で海を渡るときにその水先案内人をしたことで功績に対して下賜された名だそうだ。ほんとかな。

明治の世になって太政官札は別にして西洋式の技術で初めて西洋式印刷されたのが神功皇后というのが天照大御神の国、やはり日本は女性の国だと言う事なのだと思う。
SDなんちゃらなんて最近外圧に負けて法律が成ったが、本来なら日本には関係ないのだよと思っている。
日本人が日本を忘れてしまうこと、自信を失う事が怖いと思う。。。。

いつのまにか自分は。。。

いつの間にか少女はは、TONが昔好きだった揚水の歌。
その話ではなくいつの間にか自分は。。。はなのだ。

自分というのは一番わからない存在。鏡に映る自分はホントの自分ではないし、最近は動画が簡単に使えるからと言っても、一から十まで全て映しきるなんてよほどできることではないだろう。じゃどうしたら自分を知るの?と言えば相対的に観察するしかない。人間つまり「じんかん」で相手に映し出される表情や人間関係の中に自分を映し出すしかない。

昨日はおふくろの13回忌を行なって暫くぶりに姉夫婦とその子供達夫婦その子供たち姉からみれば孫たちが全員勢ぞろいした。
コロナの時代もあって12年前の母の納骨式に勢ぞろいした時以来の顔合わせとなった。

以前は姪や甥たち、その各親がいて小さい子供達がそれぞれいて、出っこみひっこみで、まだまだ大人の責任が大きかった時代の風景。
それがいつのまにか大人の集団に成長していた。
自分の所も入れれば20人近くがみな遠い親戚ではなく母の下何とか育ったたった2人の姉弟から出てきた群れなのだと思うと感慨深かった。

何処の人もそんな風に思うのかもしれないが・・・。
前の晩偶然出てきた親不孝していたころ母からもらった手紙を改めて読み返した。
「無学な親だけど2人にかけた愛情はだれにも負けない」・・・昔思わず落涙した事を覚えている。
そうなんだ。わかってる。そんな思いが姉に伝わり僕に伝わりして今がある。
だから集まった20人の群れは母の思いを継いだ一族となっていくのだろう。

お山もそろそろおしまいか。。。

富士山の閉山は今月10日。
今年ほど富士登山に問題提起の多かった年はないのではなかろうか(TONが知らないだけかもだが)。
弾丸登山。海外からの観光客による無謀とも言える軽装、行き当たりばったり無計画な登山スタイル。ゴミの問題。。。
山開きの時期に頂上付近での登山者の事故?死がしょっぱなから暗雲を投げかけた格好だった気がする。

TONの記憶に間違いがなければ、富士山が以前ブーム(4、50年前の話し)となった時、日本人の若者がハイヒールで入山したりの軽装登山は問題視され週刊誌などをにぎわした記憶がある。外人ばかりを責めるわけにはいかないような。。。
かく言うTONも似たり寄ったりの記憶がある。

半ドンのあった時代、当時は仕事が終わる土曜日の夜に富士山に向かい、五合目を夜中に出発する今で言う弾丸登山真っ盛りの時代。
とにかく人が多かった。押されるように前に進み道に迷うことなどあり得ないコンベアのような始末。8合目9合目で疲れれば、そこらでごろんと横になって星空を眺め、下界からずっと続く登山者の懐中電灯の明かりをボーっと眺めながら疲れを癒しまた頂上めがけて登りだす。
団塊以上のお兄さんお姉さんたちには青春の記憶としてあるのではないだろうか。ぜったいあるはずだ。

TONはおまけに愛車を担いでいた。12㎏。今時のマウンテンバイクなどなかった時代。サイクリング車から余分なものを外し、ドロップハンドルをオールランダ―バーに替えただけの代物。
担いでいるとどこを走るの?と登山者に何度も尋ねられる。けれど走れる所は何処でも走ると応えた。現地に入ると案外登りでも走れる所は随所にあった。一番の目的は下りだったのだが。。。砂が。。。深い。


頂上から9合目に向けて走り始め。。。このあと空中一回転。

富士登山に規制がかかるとしたら、サイクリストにもかかるようになるんだろうな。