リターン守護仏ネックレス

何年使ってくれたんだっけ。
いつもいつも首に下がり。

頑張ってくれている。

ちょっと紐が切れたけど、

よく見るとしっかり磨かれている。

玉もしっかり光り輝いている。
これが白檀だとは思えないほど鍛えられている。

いいなあ・・・

仏像修復

なんでこんなにいいんだろう・・・
日本人の手によるものであることは間違いないのだが、
名のある仏師と言うことでもないようではある。

けれどバランスもいいし、
顔がいい。

この慈悲心を端的に眼に現せるというのはそう簡単ではない。

厨子も埃はかぶっていても、手がいい。

聖俗

仏像彫りで原画探しに合羽橋にある中央図書館に走る。

いやあ今日は、とにかくあっちへ行ったりこっちへ行ったり
まさしくピュンピュン丸だった。

最後の最後まで、全力疾走。
ちなみに靖国神社へも全力疾走。
もうへとへと・・・

で、なんとか原画は見つかり、せっかくのチャンス。
浅草寺資料を今後の参考にと二階の郷土資料室を訪ねる。

思った以上に寺の資料は少なくてちょっと残念。
目を配っていると、こんな資料棚が目に入る。

しかも浅草寺資料の背中合わせの棚。

さすが浅草。聖俗が一つところにまとまっている。

地元ならではの格好となっているではないか・・・

はとがいっぱい

ヒッチコック「鳥」?

白いと不気味には見えない。

「僕のごはんだ」

猫の親分が縄張りを争っていた。
写真を撮っていると、
「写真屋のおばちゃんが、食べちゃうのよ。丸々太ってるでしょ」

そういえば毛並みがいいなあ。
野良のくせに・・・

平和だ・・・

浅草寺のお掃除

朝は気持ちがよい。

記念樹(樹齢800年)と浅草寺本堂

近寄ると、
3月10日の東京大空襲の爪あとが未だにはっきりと読み取れる。


最近柵が張り巡らされて覗き込むしか出来なくなったが、
戦前の天然記念物を襲った災禍はしっかりとタイムカプセルと化している。

店頭社会学

店に立ち四半世紀を越えて接客していると、お客さまの嗜好の変化が如実で時代を映し出す鏡のようでおもしろい。

ここ最近、とにかく団塊の世代から同年代とおぼしきお客さまの層が圧倒的に多くなった。
先祖供養に責任をもつ世代が下がってきたと言えなくもないのであるが、単に世代交代しているとそう単純なものでもないように思う。

つまり家の先祖を無条件でお守りしなければいけないというという考え方から、多種多様な目的での来店が目立つようになってきた。

自分を守る仏を祀りたい、巡礼をしたい、写経をしたい、癒しを求めたい、云々・・・
言うなれば自分探しに近いところで、仏教を宗教として感じているように見受けられるのだ。

「仏教を宗教と感じる」変な表現だけれど(そもそも仏教は宗教なのだから・・・)より本質に気付きだしてきたのではないのかな。

僕らの親の時代までは、家の宗教は宗教。自分の生き方は生き方のように、そこには厳とした隔たりがあったように思う。家の宗教には生き方までを求めていないし感じさせてもくれない。先祖をお守りしてくれる都合のよい保管機関程度の存在。
認識の上ではそうだったのではないだろうか。

寺と言う存在は実は宗教だったんだということに改めて気付きだしたのではないのかな。

こういう傾向って、2~30年前はまず話題にもならないことだった。
以前は先祖をお守りするのは、不可侵的な部分として寺との関係も含めて、家の宗教としてまず守ればよい。個の考えは挟む余地がなかった。

しかし、オール社会派みたいな時代の寵児達、社会の改革を標榜していた世代が先祖を守る立場で親からバトンタッチされた今、
先祖供養の形に変化をもたらしてくるのも何となく理解できる。

同時に微妙な問題を孕む大事な時期のような気もするのだ。