いろめがね

秋葉原の事件後様々な波紋があるという。
ネット上に、避難の声に混じって、同調する声、予告する声、殺人者を褒め称える声
様々な責任、無責任な書き込みが後を絶たないという。補導されたものも現れたとか。
それもまた、メディアの恰好のソースになっている。

メディアの姿勢を見ていると、
そら恐ろしく感じる最近の若者像を創っていく。

けれど僕の周りには1人としてそんな人は見かけないゾ。
鼻にピアスしていようが、タトゥーをこれ見よがしにしていようが、
ズボンを地べたに引きずるように下げて歩くことはあっても
個の表現がそうであるだけで、素直な日本人さ。

世の中がどこかおかしいと言う前に、
色眼鏡をかけさせられている自分に気付くべきが先。

知らずうちに、いろめがねをぼくもかけている。

褒めて育てるのか、
けなし、欠点を指摘し続け育てるのか。

口に苦い塩もたまには必要だが、
長所を伸ばす教育がよいといわれ、だれしもそうだなと納得しているご時世ではないか。

メディアもおなじ。
塩はちょっとでよい。

娑婆世界の大変さは言われなくてもわかっているのだ。
1%のよさでも0.1%でも0.01%でもよい。

よさが見出せる出来事があるならば、もっともっと流したらよい。
それこそ、針小棒大はメディアの得意分野ではないか。

小さな奇麗事を探し見つけだし、膨大に報道し続けたらよいのだ。
夢を語ったらよいのだ。

方向を示したらよいのだ。

良いことを保護したらよいのだ。

繰り返し、人間の暗部を穿り出し、垂れ流しするのとどちらがよいか、

明白ではないか。
これ以上若者、幼きものを腐らせない、白けさせない為にも。

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