いろめがね

秋葉原の事件後様々な波紋があるという。
ネット上に、避難の声に混じって、同調する声、予告する声、殺人者を褒め称える声
様々な責任、無責任な書き込みが後を絶たないという。補導されたものも現れたとか。
それもまた、メディアの恰好のソースになっている。

メディアの姿勢を見ていると、
そら恐ろしく感じる最近の若者像を創っていく。

けれど僕の周りには1人としてそんな人は見かけないゾ。
鼻にピアスしていようが、タトゥーをこれ見よがしにしていようが、
ズボンを地べたに引きずるように下げて歩くことはあっても
個の表現がそうであるだけで、素直な日本人さ。

世の中がどこかおかしいと言う前に、
色眼鏡をかけさせられている自分に気付くべきが先。

知らずうちに、いろめがねをぼくもかけている。

褒めて育てるのか、
けなし、欠点を指摘し続け育てるのか。

口に苦い塩もたまには必要だが、
長所を伸ばす教育がよいといわれ、だれしもそうだなと納得しているご時世ではないか。

メディアもおなじ。
塩はちょっとでよい。

娑婆世界の大変さは言われなくてもわかっているのだ。
1%のよさでも0.1%でも0.01%でもよい。

よさが見出せる出来事があるならば、もっともっと流したらよい。
それこそ、針小棒大はメディアの得意分野ではないか。

小さな奇麗事を探し見つけだし、膨大に報道し続けたらよいのだ。
夢を語ったらよいのだ。

方向を示したらよいのだ。

良いことを保護したらよいのだ。

繰り返し、人間の暗部を穿り出し、垂れ流しするのとどちらがよいか、

明白ではないか。
これ以上若者、幼きものを腐らせない、白けさせない為にも。

縁とは不思議・・・

市電好きに気が付いたのが、そもそも遅くて、
故郷横浜の市電全廃時である昭和47年の春。
僕らの世代には、フォーク熱やサーキットの狼で火がついた
スーパーカーブームが表面化してきた頃だった。

高校になりたての頃だった。
市電なんて過去の交通手段くらいに思っていた(その情報すら興味もなかった)
けれど、子供の頃からかかわりの深かった足でもあった市電
「行かないと後悔するよ」と姉の言葉に押されて家を出た。
高校生が12時近くに・・・

最後の最後、最終の花電車に間に合った。
桜木町駅前から1150型のお別れ電車の最終電車に飛び乗ることができた。
滝頭車庫までの20分程度の時間がいつまでも終わらなければいいのに
と思いながら乗車した。

終点に到着し通常ならば乗客は、車庫前で降ろされるのだが、
最終電車は車庫内まで僕ら乗客を運んでくれた。
満員の車内の乗客は、これが最後と感じたのだろう。
何を思ったのか、「記念だ」とばかりに今の今まで吊り下がっていたつり革を
ねじり切る者が現れた。
1人が始めると連鎖的に我も我もと車内備品を持ち帰ろうと騒然となった。

僕には到底できない蛮行を気持ち悪さを感じながら見ていた。
車掌(車掌はいなかったかな)も止めるそぶりを見せなかった。

まあそんなことがあって翌日には早速、早朝の車庫に足を向けた。

昨夜のこと、もう主のいないレールのみが、何事もなくそこに走っていた。
それが日を追うごとに、錆をふいてくる。なんともいえない光景だった。

そこからが市電マニアとして熱が上がっていく。
すでに故郷には存在しないわけで、俄然、周辺都市に興味対象は広がらざるをえなかった。

その点、都電は格好の対象となっていくことになる。
須田町交差点で初めて見た東京の市電(都電)はでっかかった!
6000形のでか顔をはじめ、7000、7500、8000形の独特の表情を持つ車輌の
行きかう東京は、一面ホッとする町でもあった。

一日だけ仮病を使い学校を抜けて、都電に会いにきたことがあった。
須田町ー浅草ー柳島車庫ー福神橋 錦糸掘車庫・・・
とにかく丸一日乗り続けた。

(まさかここに住むようになろうとは・・・)因縁とは、げに恐ろしい。

しかし昭和49年には荒川線を除いて東京市電(旧市内線)は全廃となってしまう。
僕も行く場を失い、さらに外に走り出すようになっていった。

今東京に住み荒川線も目の前にありながらも、どこか違う。
当時とどこかが違うと思いめぐらすのだが、
最近ようやく理解できた。

車輌の仮装ボディーが乗せかえられているもの、
当時のボディーにはあったステップが、ホームが縁石一つの高さから
高床に変更されたことで、きれいにカットされたもの。
と、郊外型電車の様相になってしまっている。
もちろんカラーリングも違う。
それでどうも思い出の糸がプッツンと切られた感じだったのだ。

最近7500形が3年後に全廃されると聞いた。
聞いたがピンと来なかった。
http://sankei.jp.msn.com/life/trend/080507/trd0805072018015-n1.htm

が、このサイトを見ていてようやく理解できた。
http://homepage1.nifty.com/chianzu/toden/photo/s45/t_photo_18.html
全廃前の都電最後の新造車のあれね。
とばかりに頭の回路がようやく修復しはじめた。


7500形の代替新造車8800形

秩父霊場

Tさん久しぶりの巡礼記。

奇しくも僕の秩父行きと日程がぴったり一時間しか違わなかったという
いわく因縁つき・・・よい因縁でしょう。
僧籍をもつ彼でないと気付かない視点で書かれているのがおもしろい。

http://moon.ap.teacup.com/applet/hanajyoudo/archive?b=40

メールでBoo店長の巡礼の役に立てばだって・・・

くくく・・・(笑っているんじゃあないよ。泣いてんの!)
泣かせるねぇ・・・

ああ野麦峠

秩父に気を良くして、満願したら次の行き先も決めている。

野麦峠。

自転車人生のスタート地点なのだ。
はじめての峠越え。

山本茂美の「あゝ野麦峠」
女工哀史を読んで、どうしても行きたくなった。
19歳の夏。

当時は、社会にひたすら疑問を持っていた時期だった、
胸を打たれての衝動的行動。

当時住んでいた横浜から名古屋経由で高山まで輪行した。

レーサーシャツにキュロット+レーサーシューズのいでたち。
今思うと、何とも恥ずかしくスタイルなのだが

当時としては、かなり突拍子も無いスタイルに映ったことだろう。

駅前で組み立て、多少日が高くなっていた高山の街を出発した。
ああ野麦峠の史実に沿って走るために、本番の野麦峠の前に
美女峠という比較的低い峠が待っている。
最初の関門が待っている割には、スローなスタートだったようだ。

美女峠は、なだらな坂。多少戸惑いながらも難なく越えたと思う。

ただ、本命の野麦峠へのアプローチに入る頃には、
正午をとっくに過ぎていた。

飛騨側の路面は、多少荒れてはいたけれど、全工程舗装路。

買ったばかりのケルビムのオレンジのロードを駆って、
勢い頂上まで・・・

と行きたかったが、それ、練習不足の体には、つらかった。

途中、水のみのため、
写真撮影のため、
と称しては休み、峠に立ったときは、日は、3時を過ぎ西に傾き初めていた。

すでにオレンジ色に染まり始めていた。
建て直されたお助け茶屋は、予想に反し近代的(観光的)で、居心地が悪く
お茶を一服いただいて早々に辞した。

泊まりの設備もあったように記憶するが、明日には戻らなければならない。

松本方面への下り道を探した。
山道は、あっという間に暮れることをフッとよぎったが、
後は下りとたかをくくっていた。

「下りだろ。大丈夫。ままよ」
勇み、泊まり客の間をすり抜けて、
弱き心を振り切って、松本側に滑り出いた。

さあ・・・。
それからが、地獄の一丁目の始まりだったのだ。
初夏とは言え、山の日暮れは早かった。
夜間を走るつもりはなかった。
雨になろうことも、これぽっちも頭になかった。

携行品と言えば、小さなリュックに、
非常食とヤッケと後続車よけの電装のリフレクターのみ。

そんな状態だから、もちろん前を照らすライトなど
持っているはずもなかった。

どうしてこんな軽装で出かけたのか、全く思い出せない。

ただ、ライトを持たなかったことは、
「後悔先にたたず」を正に地でいくこととなった。

峠を少し下ると・・・
舗装路と思い込んでいた路面が、こぶし大の石がゴロゴロ転がり
雨で洗われるのだろう岩が露出する最悪の路面。

熊笹で覆われる、車一台やっと通れる細い九十九折の林道が
急坂となっていた。
乗って走ろうものなら、石にタイヤが埋まる様相を呈し、こぶし石に乗り上げ数百メーター下がった所でパンクとなる始末。

とても、チュ-ブラーのタイヤで何とかなる代物ではなかった。

ここで、予備タイヤを使ってしまった以上、
松本までの数十キロをもうパンクさせるわけにはいかなくなった。

予想外の展開に、十数分で抜け抜けるところを
1時間以上をかけて歩いて下ることとなった。

しかも、プレートを打ち込んだ、レーサーシューズで。

そんなときに限って、「ああ野麦峠」の一節が脳裏を掠めるのだ。
故郷の土を踏めずに亡くなっていった女工たちの心境まで
みごとに湧き上がってくる。

道は狭く、熊笹に覆われて、足元もおぼつかない。
なんとも心細い話であった。

ついでにカラスの鳴き声まで、不気味に響く。

ようやく浮石のなくなった地点まで下がると、
日はとっぷりと暮れて、夕闇が迫っていた。

冷や汗なのか、脂汗なのかわからぬ汗をかきかき、
ここから始まる松本までの20kmを越えるダウンヒルを
楽しむ。はずだった。本来ならば。

しかしすでに闇。
人っ子一人いない山の中。

ライトは、腕に付けるレフのみ。

ままよと下った。

しかし無謀だということがすぐに理解できた。

新月だったのか、雲で月が隠されたのか、思い出せないが、
漆黒の暗闇で道が全く見えない。

目を凝らすと、
薄っすら、路面のラインがぼやけて見える。

渓谷沿いに下るので、一歩間違えば谷底だ。
恐ろしい話だ。
泣きたくなるとは、こういうことだと思った。

昼間なら、気味の悪い山間の随道も、
このときばかりは、水銀灯のオレンジ色の光に、
命を取り戻す生を感じる心持ちだった。

気味悪くぽっかりと吸い込まれそうな暗黒の口を空くダムを見ぬようにし、
若干の上り下りをとにかく、がむしゃらに猛スピードで通過した。

もし人が見たならば、疾走する僕の形相はどんなだっただろう。
いや、泣きついて「軒先でもいいから泊まらせてください」と申し出たかもしれない。

松本側の島々の町の明かりが見えたときは、
ほぼ放心状態にあった。

松本まで走る気力は、全く消えうせ、
時折人が行きかう新島々駅前のベンチにかまわず横になり
蚊の攻撃も全く意中になく転がって動けなくなった。

生きて戻れた・・・
パンクしなくて良かった・・・
心底思いながら。

ちょっとアスリート?

念願?の秩父霊場行きから、もう1週間経とうとしている。
じつに早いものである。

二日で満願をすること。
そして満願した後、浅草の我が家まで走って帰ること。
残念ながらその両方とも果たせなかった。

秩父から都内に向かえば必ず600mクラスの峠を越えなければいけない。
その余力が全くなかったから苦渋の選択で楽して帰った。
けれど、
曲がりなりだったが三分の一近くの札所を打て、
自転車三昧に明け暮れ、温泉で汗を流し岐路につけた。

余禄としてメタボな体から2kgの脂が落ちた。

あれから走れない状態がつづいているけれど、
体重は4~500gリバウンドしたものの、下げ安定している。

そう・・・走ると、必ず-2Kg、脂が絞れる。
選手の真似事をやっていた時代もそうだった。
ベスト体重からでも走り終えるとピッタリ同じだけ減っていた。
この方程式は30年経っても変わらずに生きていたのには驚いた。

絞るのが目的ではないけれど、次の札所周りの準備のために
明日も走るとしよう。