なんてない。
何一つ無駄なものなんてないし、
当たり前なことなんてない。
朝、目が覚める。
床から起き上がる。
身体を起こす。
洗顔をする。
歯を磨く。
朝食をとる。
出社前に、もよおして厠に入る。
気持ちよく済ませる。
流す。
支度をし、玄関に行って靴を履き出かける。
今日の仕事に思いを馳せる。
・・・・・etc.
ある人は、また一日が始まっちゃた。
あれもやらなきゃならない、これもやらなきゃならない・・・
そう思う人もいる。
子供時代は虚弱だった。
それはそうだろう。
母が唯一の働き手であった我が家だったが
しかし僕は保育園にも幼稚園にもいかなかった。行けなかったと言うのが正しい表現かもしれない。
日中は布団からまず出ることもなくテレビもないしんとした暗い部屋で過ごし、
姉が小学校から帰ってくるまで、一人で留守番をしていた。
サンサンと照る太陽の下、黒くなることもなく、友人と遊びまわって泥んこになることもなく、骨と皮の5歳児となっていた。
一年以上を日陰者のように過ごせば、生物学的にもどうにかなってしまうだろうて。
あまりにも目に余り、心配のあまり、母はTONを田舎に預けるほどだった。
数ヶ月の田舎暮らしに多少の人間らしさを取り戻しはしたが、虚弱さは相変わらずだった。
小学校に入学時には、友人との駆けっこについていけたためしはなかったし、
学校にもがぜん休みがちとなる。
だって体が持たないんだもの。
たまに登校しても持たなくて、保健室で寝ていると、天井を見ながら、何でこうなんだろうと子供心にも悲しみを覚えたものだった。
中学から初めた剣道は、自分の起死回生となったのだが。
そんな時代を経たせいかな。
当たり前と言うのが自分の中にはない。
朝目を覚ませるのか解らなかったし、
今日は美味しく食事ができるても明日は気持ちが悪くてのども通らないなんていうことでわからなかったし・・・
何だろう・・・
そうだったのだ。
当たり前にできることが不思議でならなかったしその癖がいまだに続いている。
子供時代は、狭い範囲でしか視野がないから、自分を不幸の中心においていたけれど、
大人になるに従って、ボランティアの真似事に首を突っ込んでみたりして
「あたりまえ」に胡坐をかくことの愚かさを肌身に沁みて解ってきた。
だからこそ感謝ができるのだろうと思う。
「あたりまえ」を捨てることができれば「感謝」を拾えるのだと思う。
そんな思いを常に感ずることのできる感性が自分の中にありますように・・・
そうでありたいと思う。
素敵なお話しをありがとうございました。
心にグッときました。
本当にそうですよね。
ご幼少時にご苦労なさったからこそ、今の素敵なTON様があるのですね。
ますますファンになりました。
これからも、素敵なお話し聞かせてください。
冠三宝さんいつもコメントありがとうございます。
当時あんまりにもひ弱だった自分を見ながら、母親がもらした言葉が子供心ながらも胸にこたえましたが、今、親になってみると、捕らえ方が変わるものです。
物事って見方、捕らえ方、視点視野一つだなとつくづく感じます。