十一面観音経。
お客様からのご依頼で、急きょ探しまわった。
訓読の経典はあるのだけれど、真読(漢字読み)の経典が見つからないから探して欲しい・・・・と。
聖天さまを信仰しているのかと思いつつも、調べてみると・・・
これが案外厄介だった。
「読み下し文(訓読)でしか十一面観音経はつかいませんよって」
どこの版元もすげない返事。
ようやく一軒だけ見つけることができた。
「在庫ありません。いつ作るかわかりまへん」
とまあこんな様子でまったりした答えしか返ってこない。
相手は急いでいるのだからとかき集めてもらってなんとか事なきを得た。
でも、しかし、つい先日も同じような心持をした記憶がまだ消えていない。
大日経を探しておられたお客様のご依頼で、探したことがあった。
しかし、空手で終った。
金剛頂経も大日経も同じ状況で、大事な経典にもかかわらず廃盤の憂き目に会っているのだ。
「今は読まないから」
なのであった。
はからずも手元に大日経の住心品だけは自分の勉強と思って昔とっておいたものがあったので、その版元から入庫できたが、風前の灯である。
在家経典の一般本があれば、極力版は減らす傾向にあるのだろう。
版元の気持ちも解るにはわかる。
けれど、それでいいのかな・・・
ちょっとばかり疑念が生まれてしまうのだ。
メジャーではないが、必要とする人がいる。
釈迦の言葉を探す人がいる。
しかも以前は確かにあったのだ。
効率と言うことの前に、大事な救いの「言」が消えてしまうことなのではと、言い過ぎというならば、必要とする人の目から隠れていってしまうことなのだ。
TONにはちょっと解せない。
正直な気持ちである。