専堂坊の碑

浅草寺の観音様が浅草浦(隅田川)から檜前浜成、竹成の兄弟の両氏に引揚げられたのが1400年ほど前の推古天皇36年という。

観音様を邸宅に祀り自らが出家したその人がこの地方の郷士(地方長官のようなもの)だった土師中知(はじのなかとも)。

代々土師中知の子孫が「専堂坊」の名を継ぎ浅草寺を守ってきた。
ちなみに浜成の子孫は斎頭坊とよび供物等の取り仕切り、竹成の子孫は常音坊と呼び鐘など鳴り物の奉行。

専堂坊屋敷が念珠堂を含む一帯の土地に明治の初年まで存在していた。
このことは以前にもTONちゃん日記にアップさせていただいているのでこちらをどうぞ。

歴史的事実というものは、よほどのことがないと廃れていくもののようで、明治の沽券図(明治政府が地租改正を行い税金をかける為の元になった地籍図)が手元に入らなかったら消えてなくなっていたかもしれない。
町内でもこのことを知るものは皆無だったのだから。

一部の歴史家にはそれほど有用なものとは思われていなかったのかもしれない。
その専堂坊の直系は廃仏毀釈の嵐の中、浅草寺の役職を不本意ながら退き、浅草大権現から新たに改名された浅草明神社の宮司へと還俗(正しくは寺から還俗し新たに神職に就いたのだが)したのだった。

寺側には新たに専堂坊職に他のものを就かせるということを行なったが平成の世に惜しくも消滅した。
専堂坊の直系の血は、浅草神社の現在の宮司さんにあるということになる。

その宮司さんの書がこの書。

間もなく石碑が建立される。