「専堂坊屋敷跡」なんて言われたって「何のこと?」でしょうね・・・・
屋敷跡がというのだから、何かの家のあと地なのだとわかるくらいでしょう。
念珠堂を含めた雷門2丁目の500坪をこえる場所(1400年前はもっと広大だったようですが)浅草という土地の郷士の屋敷が建っていた場所なのです。
隅田川は当時は海が内進していて、一面まだ海で浅草浦と呼ばれていました。
その海で漁労をしていた二人の兄弟漁師、檜前浜成、竹成の兄弟。全くその日は魚はかからず、掛かるのは人がたのもの。こんちくしょうと言ったかは知りませんが生みに投げ返す。
何度網を打っても、たびたび掛かるのは投げ返した人がたのもの。
早々に凌をうち切ってその人がたを土地の郷士に見せに行ったといいます。
郷士はそれが「観音菩薩」であると見きわめた。霊験あらたかな菩薩様であると兄弟に教えると同時にその尊像を自宅に祀り本人出家して生涯祀ったと言われているのです。
その郷士が、土師中知(はじのなかとも)と言う方で、浅草第一番の篤信者ということになるわけです。
実はその屋敷がこの一帯に広がる広大な屋敷に当たるのです。
土師中知の直系は半僧反俗、つまり妻帯を許され、が代々浅草寺のいっさいを仕切っていたことは知る人ゾ知るなのです。
その役職を専堂坊と呼び、特別な権限も併せ持っていました。
明治の廃仏毀釈も震災も戦火も乗り越えてきた文化的伝統も、残念ながら63代続いた専堂坊は平成2年に消滅してしまいました。
四半世紀たって、今は土地に住んでいる土地っ子でもその名称を知る人は激減しました。
で、その名跡を残すことを目的にしたのがこの碑の建立だったわけです。
碑を建立して一ヶ月近く経ちましたが、見落とすような場所なのですが、案外関心を持ってくれださるようで、観光のお客様が、碑の前で写真を撮られたり、資料を求めに来られたりします。
昨日まで専堂坊?ってなに?だったのが普通に語られている。認識されるようになっている。何だか不思議な気もします。面白いものだなぁとも思います。