今日お世話になった方から年賀状をいただいた。
その文面に、中桐雅夫の詩の一節が書かれていた。
「新年は死んだ人を偲ぶためにある・・・・
・・・・己が生き残っているのはなぜか問うためにある」
胸に響いた。
数年前まで東京周辺でなにかと話題になったことで、正月の墓参りがブームだということがある。覚えていらっしゃる方もおられるだろう。
TONも昨年の暮れにちょうどそんなことを思い出していたのだ。
最近お正月に墓参りするという声が減ったなぁ・・・あのブームはなんだったのかな・・・
と。
そこで、関西から来てくれる営業マンに何人か尋ねた。関西では当たり前のこととして、新年になればご先祖に挨拶に行きますよ。と、こともなげに答えるのが常だった。
一休禅師の歌には
「門松は冥土の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし」
とある。(一節には一休さんの歌に見当たらないという説もあるようだが)
正月早々何を縁起でもないと思われるかもしれないが、脚下照顧、自分というものを改めて見直す機会として与えられているのですよと読み解けば良いのだと思うTONなのであります。
神社仏閣に寒い中足を運んだり、手も足先も凍りそうな夜明け前に出かけてご来光を仰ごうとする精神構造は、日本人のDNAにしっかり組み込まれた己を振り返ようとする向上心の姿なのではないのだろうかと思わずにいられないのだ。
「きのうはあすに」
新年は、死んだ人をしのぶためにある。
心の優しいものが先に死ぬのはなぜか、
おのれだけが生き残っているのはなぜかと問うためだ。
でなければ、どうして朝から酒を飲んでいられる?
人をしのんでいると、独り言が独り言でなくなる。
きょうはきのうに、きのうはあすになる。
どんな小さなものでも、眼の前のものを愛したくなる。
でなければ、どうしてこの一年を生きていける?
中桐雅夫詩集「会社の人事」より