「切れない糸ってないの」
とときどき要求されることがある。
しかしこのご要望は、「死なない体にしてください」と同じレベルのことをおっしゃっているのである。
かたちあるものは必ず消えていく。
諸行無常を教えてくれるのが仏教ではないのだろうか。
まして一番身近な法具といえばプロもアマも等しく仏教徒である以上必需品の念珠である。
法具には一つ一つ必ず意味があり、悟りに近づかせてくれるはずなのである。
そこには気づきが必要なのはもちろんだが、佛の教えを学ぶ思慮も必要だろう。
佛から頂く悟りへの法具であるを前提にしてもう一度見直す必要を感じる。
年末になるととくに門徒の方は子供の頃から仏壇の仏具を磨かされてきたのではないだろうか。
金ピカの色になるまで、ピカールかなにかの金属磨きでゴシゴシゴシゴシ・・・
「その汚れは心の垢だよ。ちゃんと磨きなさい」と。
煩悩を金属磨きで落とせるならこんな楽なことはないと思うが、方便なのだ。
法具を大事にする心、ご先祖様に綺麗なご物販で星させて頂く、掃除なんて嫌だと思う気持ちを押して忍耐の心を養わせる・・・etc・・・
でなければ作務という掃除、作業、etc・・・これはれっきとした行となる。つまり悟りへの第一歩となる。
ただし、そこに気づきがなければ、単なる掃除であり、いやな労働であるとしかうつらなくなる。
ひとつひとつのできごとには意味が有る。佛が何かを教えてくれているという前提で見直してみたいと自分も書きながら思い出した。
これも僕なりの気づきなのだろう・・・