切れない糸
「切れない糸ってないの」
とときどき要求されることがある。
しかしこのご要望は、「死なない体にしてください」と同じレベルのことをおっしゃっているのである。
かたちあるものは必ず消えていく。
諸行無常を教えてくれるのが仏教ではないのだろうか。
まして一番身近な法具といえばプロもアマも等しく仏教徒である以上必需品の念珠である。
法具には一つ一つ必ず意味があり、悟りに近づかせてくれるはずなのである。
そこには気づきが必要なのはもちろんだが、佛の教えを学ぶ思慮も必要だろう。
佛から頂く悟りへの法具であるを前提にしてもう一度見直す必要を感じる。
年末になるととくに門徒の方は子供の頃から仏壇の仏具を磨かされてきたのではないだろうか。
金ピカの色になるまで、ピカールかなにかの金属磨きでゴシゴシゴシゴシ・・・
「その汚れは心の垢だよ。ちゃんと磨きなさい」と。
煩悩を金属磨きで落とせるならこんな楽なことはないと思うが、方便なのだ。
法具を大事にする心、ご先祖様に綺麗なご物販で星させて頂く、掃除なんて嫌だと思う気持ちを押して忍耐の心を養わせる・・・etc・・・
でなければ作務という掃除、作業、etc・・・これはれっきとした行となる。つまり悟りへの第一歩となる。
ただし、そこに気づきがなければ、単なる掃除であり、いやな労働であるとしかうつらなくなる。
ひとつひとつのできごとには意味が有る。佛が何かを教えてくれているという前提で見直してみたいと自分も書きながら思い出した。
これも僕なりの気づきなのだろう・・・
浅草のそら
念珠の改装ということ
嫁いだ先の宗旨に合わせたり、お寺を替えることで宗旨替えが起きることもあります。
そんな時、新たな宗旨にあった念珠を買い換えるということが発生しますが、愛着のあった今までの念珠を改装するという選択肢もあります。
写真のは、日蓮宗から浄土宗に宗旨替えということで仮組みまでです。
みかん玉の日蓮宗念珠なので定形の浄土宗にすると輪が小さくなりすぎてしまうので、ちょっと・・・ほんのちょっと知恵を使いました。(^O^)
不定形ですが二連できそうです。
一番左の上下二連が浄土宗に改装後の姿。
これから下がりを作ります。
浅草のそら
浅草のそら
桜より梅
ろうばい(蝋梅)が例年より2週間ほど早く咲きだしたと朝のニュースで流れていた。
大雪を降らせるこんな寒気の厳しい中で、実に可憐な黄色い妖精のような花がポット枯れ枝に色を落とす。
人々の目を楽しませ、明日への希望すら勧めてくれる。
日本といえば桜の国だ。
様々なところに桜はなくてならない。
桜の花が田植え時期を教える指標になることで桜木
桜餅、桜湯、
ぱっと咲いてぱっと散っていくその姿、潔さは日本人の生き方にまで影響してきた。
侍の家ではそのぱっと散るがあだとなり、家の衰退を嫌い家紋として用いられることは少なかったようだが・・・
そういえば合格通知は桜咲く。だったね・・・
桜も日本の真心として海を渡る。
ワシントンのポトマック川縁に咲く桜は東京市長の尾崎行雄が寄贈したものだがハナミズキが返礼として日本に送られてきた日米友好の証でもある。
靖国神社の標準木のソメイヨシノが咲く時をもって東京の開花宣言になり、待ってましたとばかりに桜の名所はゴミの山・・・おっとっと・・・人の歓楽の地へと変貌していく。
TONも以前はその一人でなかったとは言えず、饗宴の輪の中で楽しくリードして過ごさなかったとは口が避けても言えない一人であることは、カミングアウトしておかないといけないのだが・・・
桜の花を見ると、日本人のDNAがわさわさ動き出すのは止められないのだが、
桜の名所に住んでいるゆえに人的公害に悩まされるということ無きにしも非ず。けれど、おかげでここ浅草が潤うということで享受しているということもおろそかにはできない。
桜が日本人と切っても切れない深い仲ということを書いたのだが、好き嫌いで言うならば、最近のTONは、寒さを意とせぬ梅に軍配を上げてしまう。
なんとも心が動かされる。
清楚さ、可憐さの立ち姿なれど、梅林などに観るように、多く集まった時の見事さは息を呑む美しさにみちる。
隅田川沿いの梅たちも蕾を膨らまして準備をしているのだろうな・・・
浅草のそら
オーダー2点
白檀サーマインドで2L玉を使用しました。
かなり良い彫りのものです。
今、残念ながら作れないんです。