TONは小さい時に父親と死別した。
二つ上の姉が母親が仕事で留守がちなのをカバーして常に母親替わりとなって育てられた。
母親が二人いたようなもので、だからなのか、未だに姉には頭が上がらない。
世の中というのは捨てる神もあるが、拾ってくださる神もあるように見受けられる。
四半世紀前の社会、女手一つで就学前の二人の子供を抱えて生きることがいかに難しい時代だったか・・・しかも父親の残した借金をも抱えて。
母親の友人が見るに見かね船大工だった実家の父親に相談してくれた。
その父親も子供時代には相当な苦労をされて育った方だったからなのかえらく同情してくれた。
我ら家族のために、庭を潰しその腕で自宅を建て増しし、親子三人が住むに最低限の条件を満たす家を建ててくれた。
娘の友人で大変な境遇にいるとは言え、我が家を改造して住まわせる・・・今の自分でも果たしてできるだろうか。。
その老夫婦が大家さんとなり、小学校を卒業する直前までの7年間お世話になった。
母は三面六臂の仕事をこなしながら24時間を消化しているわけで、ほとんど家にいることはなかった。
がぜん母親役は姉となる。けれどそれにも限界がある。小一の子供が5歳の弟を面倒みるのだから。
ここでも大家の手が差し延べらることとなった。
家にはもちろんテレビなどというものはない。8時までの子供の時間は姉弟で観に行くのが常だった。
当然のように夕食も呼ばれる。
明治生まれのおばあちゃんの得意は、うどんこ入りのカレーライスと煮物だった。
今時分になると、おでんがよく出た。
「TONちゃん食べていきな」
と出されるのが、山盛りのおでん。
中でも幅をきかせているのが、ダイコンがで~んと盛られたどんぶり。
こんにゃく、ちくわぶと好きなものを食べてしまうと、その輪切りにしたのが二つ三つ器に残る。
いつもはお腹も膨れて元気よく帰るのだけれどそんなときは、
「ごちそうさまぁ」も言うことができない・・・言えるわけがない。
一目散で我が家に走り帰った。
敵前逃亡である。
後年、当時の話が出ると、
「TONは大根が出るとそれだけ残してソーーーと音もなく帰っちゃたよね」
と、いうもカラカラ笑っていた。
今は一番好きになったんだよ。と仏壇に向かって話してあげたい。