御朱印を頂こと

昨日ネットサーフィン(死語?)をしていると、あるサイトで御朱印をいただくことの説明文に

「有料のスタンプラリーです・・・」と説明していた。

ふざけんな。

間髪入れず頭に血が上った。

結果を重視する最近の社会現象と考えてしまえば気が楽になるのだが、こんな説明がまかり通っているのかと情けなくなった。

廻っていない方が更の心にこんな理屈が染み込んだり、巡った方がそうだそうだと納得していたとしたら、今の風潮に警笛を鳴らさなければならないと思う。

お世話になっているお寺から送られてくる布施本を読んでいるとこんな解説が書かれていた。
少し長いが引用したい。

Q&Aのコーナーで、
「御朱印集めに熱中している。どんなことに気をつけたらよいか?}
という質問への回答だった。


以前日本屈指の絵馬の収集家の方からこんなお話を伺いました。

「絵馬を集めている事を知ってご親切に旅行先から絵馬を送ってくださる方があります。しかし、私が絵馬を集めるのはお寺参りの手段であって目的ではないのです。どんな御本尊様や伽藍だったのか。その日の天候や季節、誰と一緒にお参りしたのかなどの情報が、一枚一枚の絵馬に全て込められています。ですから申し訳ないことですが、自分で授かった絵馬と他人から贈られた絵馬とでは、思い入れが違うのです」と。
御朱印はもともとは写経を奉納した証しで「御朱印帳」は「納経帳」ともいいます。そしてそこに押される御朱印はそのお寺の御本尊様そのものなのです。古くは切手や古銭などから、最近ではスマホゲームの中で入手して使えるアイテムまで人は他人の持っていないものを、自分だけ手にしたいという欲望を持っています。しかし、「求不得苦」(ぐふとくく)といって、求めて得られないときに、それは苦しみにつながります。御朱印集めは単なる収集ではありません。お寺参りのご縁を結んでくれる手段とし、たとえ対価は数百円でも大切に扱っていただきたいものです。


とあった。

「手段と目的」
「写経を奉納した証の書」
「お寺参りのご縁を結んでくれる手段」

これだけでも心の持ちようとその所作が変わるのではないかと思わされた。

お正月恒例

店前でなにやら、古株の小僧くんと新人の巡くんの声が聞こえていますよ。

小僧くん:またこんなになちゃった・・・

巡くん:ピッカピカじゃないの!

小:みんな頭撫で撫でしてくれるからね。

巡:可愛がってもらってるんだね。

小:そう・・・・なん・・・・・だ・・・・ケド・・・・

巡:声が小さいね

小:ソウナンダケド・・・・・

巡:な~に?

小:お店と一緒にがんばってきんだから、ぼく30歳なんだけどなぁ。
  いい大人になったのに可愛いかわいいぃいってさ。。。
  おまけにつるっぱげだしさ。。。

巡:・・・・・・・
  

スキンヘッドは今時は流行ってるって教えてあげないといけないようです。

今年は。。。

大掃除している時に書棚から救出した。

久しぶりに開いてみる。

いや、なつかしい。って懐かしい時間的期間が過ぎてしまっていることに驚いた。

午年の御開帳に伺ったのだから・・・午・未・申・酉・・・うへ!
もう3年も前ということになるの。

30年ぶりに息を吹き返した自転車を担いで、西武秩父手前の横瀬に降りた。
手回り品切符も必要が無くなったことも知らず・・・多少往生したがそこはそれ、どうにか鷹揚がきくものだと思う。

二日かければ楽勝、帰りは自宅まで乗って帰ろうと思っていたのだが、30年サドルから離れていた身は身体の各所に支障をきたしていた。1番札所に向かう途中にショートカットしようと畦道に入れば足がもつれて田んぼに落下の洗礼を受けてのスタートとなる。

巡礼道の登戸タカをくくっていたら、2番札所真福寺への上りでアウト。くだりは下りでブレーキレバーってこんな重かったっけと己の体力低下を忘れてロードの調整不良を呪う。

なんのことはない、二日で満願の気も抜けて温泉に浸かって車上の人となる。

一つ一つ地図上を目でたどる。

やはり満願しないと・・・

ことしはやり残しを。ということが。あ!そうか自転車がダメなら二本足で走ってもいいんだった。

浅草のそら

早朝はどんより雲で今にも雨が降りそうでしたが・・・

持ちこたえましたね。

浅草のそら 元旦風情

元旦の空は真っ青でした。

明けましておめでとうございます。

本年もよろしくお願いしまーす。

南千住付近まで走っていくとこんな風景が目を楽しませてくれます。

yりかもめの生きたオブジェは健在です。

やっと初日の出。

さ、お店に戻って開店です。