季節相応の気温に戻ったようですが、空気は暖まらないですね。桜の花はだいぶ開花しそうだけれど、浅草は皮に近いから、上野の山のようには咲きません。
まだ3~5分咲きの桜の下に早朝にも関わらず、ゴロンとしたりテントで寝そべっていたり、場所取りもあ~大変。満開だと足の踏み場がなくなりますが、まだまだ少ないブルーシートです。。。
季節相応の気温に戻ったようですが、空気は暖まらないですね。桜の花はだいぶ開花しそうだけれど、浅草は皮に近いから、上野の山のようには咲きません。
まだ3~5分咲きの桜の下に早朝にも関わらず、ゴロンとしたりテントで寝そべっていたり、場所取りもあ~大変。満開だと足の踏み場がなくなりますが、まだまだ少ないブルーシートです。。。
隅田川沿いはまだ桜色にはもうちょっと染まって欲しいけど。まだまだね。
久しぶりに骸骨彫りを作らせていただいた。
日本の職人が作らなくなってしまったので、海外のものしか流通しなくなってしまったので、よほど現物をしっかり見て選ばないと最近のは可愛い骸骨になってしまう。
今日は馬頭観音様のご縁日なので駒形堂で法要です。空はなんとか持ちこたえてくれました、きりっとした暖かさ。法要日和です。
浅草神社は御祭神を遷された三社のお神輿を物珍しそうに囲んでいました。
雷門や本堂の提灯が潰れているときは神輿が通るとき。今日は堂下げに備えて縮上げていました。
神社本殿の隣に三神の牌が建ちその除幕式です。と同時に明治新政府の政策で使えなくなった「土師」の名跡が復活。
実は歴史的な一幕なのです。
神事に招待された浅草寺一山の住職が見つめる中、玉串奉奠。
「三柱の碑」は三つ網紋と同じですが、船から投網した魚網を表します(その網に観音様が掛かるわけですが・・・)。真ん中が土師中知(真中知とも)で一之宮。右が二之宮。左側が三之宮。が波を表す白御影石の上でひとつの碑にまとまっています。かわいいですね。
観光連盟の会長と立ち話をしたら、ことしの神輿は変わった向きでしょ。と。
三基とも碑に向けたのだということでした。深く頷くTONでした。
「どうあげ」と漢字変換すると「胴上げ」としか変換してくれない。
浅草で「どうあげ」と言ったら、「堂上げ」なのだ。
三社祭りで氏子が我先に担ぎたがる浅草神社の神輿、一之宮、二之宮、三之宮のご祭神、つまり今から1400年前に浅草浦から観音様を拾い上げ、自分の屋敷に祀られた功労者である土師中知(はじのなかとも)、檜前浜成(ひのくまのはまなり)、檜前竹成(ひのくまのたけなり)の三者(三社)を神社からその氏寺である浅草寺に戻っていただく行事なのだ。
戻る。
そう。もともとの居場所なのだから。
明治以降の神仏分離がなければ神社とお寺は今でももっと密になっていたはずなのだが、明治政府の政策が文化の糸をこんがらがらせてしまったわけだ。
土師という姓もこの明治のドサクサの中、使用することをはばかれる事件が起きて、いまに至ってしまった。
151年。
今年は明治151年だという。この間、土師氏は「土師」を名乗らなかった。正確に言えば明治政府に気兼ねして名乗れなかったというべきなのか。
明日は「堂下げ」の行事がある。上がったものは下がる。行ったものは帰ってくる・・・のだ。で、神社境内に三神の碑が建つ。そこに合わせて現宮司が姓を「土師」に戻すことになった。
元はといえば、浅草寺を司ってきた専堂坊(土師中知の公孫)が神仏分離令に従って、神社の宮司にならざるを得なかった時点からのややこしい問題。土師死を名乗ることの意味を今一度考えていきたい。
と、思うTONなのだ。