寝ても覚めても

何にでも興味を持つのは僕の良くも悪くも特徴。
多少のばらつきがあるけれど、長い付き合いになる。

念珠作りも仕事と言えば仕事なのだけれど、
そう思いながら製作したことはない。

趣味というと語弊があるが…
ようするに好きの延長なのだ。

儲けようと言う気はないし、
会社を大きくしようと言う気もない。

こういう人が、株式会社を何故作ったのと時々考えちゃうが、
立ち上げた当時は、社会的信用と言うことが
一番だったからだけなのだ。

株式会社というくくり以外で、
自分の考えにあった企業形態があったら
とっとと作り変えたいと思っている。

まだまだ創りたいものがフツフツ湧いてくる。

愛宕山、昨日の続き

愛宕ってもともとは、慰霊の土地につける名称。
その為とも思われないが、別格クラスの寺が軒を連ねている。


心霊スポットもあったり

肝試しに夜中、一周してこいと言われたら
早々に辞退するだろう。

こんもりとした杜は、都会の中に憩いを感じさせる一方
そこが霊地であり、聖地である。
つまり祈りの場なのだと言うことを
忘れてはならないことを感じさせられた。

放送博物館を下見し汗が引っ込んだ頃合をみて
勇気を奮って外に出る。
ちょっと目を横に向けるともうそこが愛宕神社だった。

本来なら、この男坂をハーヒーいいながら上るところ
グリーンヒルをとことこ歩いてくると苦もなく神社に到着と言うのは、
得した気分。
井上陽水の「断絶」のレコードジャケットのように

青年が階段に腰掛けて涼んでいたが、
緑が多いためか体感で2~3度違う感じだった。

ぼくは、これで涼んだ。

神社の由来を読んでいると

尊攘義軍玉砕十二烈士女という説明文を発見した。

昭和20年8月22日憂国の士が自決したと二行に渡ってさらりと記されていた。
境内を探したが、殉死された碑は見つからなかった。

ただ、柵で仕切られ、立ち入れない、草ぼうぼうのコーナーが、
ひっそりとあったが、そこが何を示す場所かの掲示はされていなかった。

後で調べると、どうやらそこが殉死した場所と判明した。
戦後22年の自決とは言え、憂国の思いをもって逝かれた志、
もう少し丁寧に扱えないものかと感じつつこの場を辞した。

考えると、
戦後に特攻が行われたことも、
1000名以上のB、C級戦犯と冠された元日本兵が
戦勝国の一方的な裁きで刑場の露と帰したことも、
多くの憂国の士が戦後自決したことも、
その多くが正しく伝えられていないことが、気にかかった。

地元で聞くと、他の戦跡もあったそうだが、
全て片付けられたと聞いた。
戦跡は残さない方針なのだろうか…

帰り道は、灼熱地獄だった。

浅草の空

昨日は暑かったですね・・・
でも夕方からは、乾いた風が気持ちよかった。

さて、本日は・・・

愛宕山は異空間

今日は仕事でここ。
たまに浅草を離れ港区に。

愛宕山に分け入った。

山とはいえ、ここは港区。
東京タワーがどこからも望める。

エレベーターだものね…

個性的な結界杭?かな。

このコントラスト…

目的のお寺にやっと到着。
しっかし暑かった・・・・・

飛び込みたい衝動!!

念ずれば…

「念ずれば花開く」とは坂村真民さんの有名な詩であるが
ぼくは、「いい言葉」に止まらず、心底信じている

「念ずれば通じる」とか「祈りはかなえられる」とか、
素直に信じる。

はじめからそう思えるようになったわけではないのだが、
この仕事を始めてからというもの、
不思議なことに数々出会ってきた。

裏付ける事実が腐るほどあるのだ。

ゆえに、
偶然で結果が出たとはとても思えない人なのである。

水晶ネックレス

どこかで取り上げられたかな…

「水晶のネックレスを」と尋ねるお客様がこのところ多い。
積極的ではないけれど、
言われれば、何でも創っちゃうからね。

どこかで噂が流れたかな…。


12mmの水晶を使用
14mmの茶水晶を4玉使用、SV金具留め。

迫力があってよかった。

でも僕は何屋だろう…自己嫌悪

金の腕輪

18kの腕輪。
70gを越えるとちょっと重い。

持込だったけれど、ムクの玉はあまり向かないように思う。

18kなら、中空の肉厚が丁度良いかな。

いい勉強になった。