心のトレース

ALS(筋萎縮性側索硬化症)
久しぶりに、テレビのドキュメントを介して目にした。
NHKの人間ドキュメントのなかで、
少年期に心を開かせてくれた友人に、
己が僅かな余命の間に逢いたいとして、探し出すノンフィクションであった。

自分がALSを始めて知ったのは、30年以上前のことではあるが、
当時は、名前すら知らなかった。
とにかく奇病としか告げられなかった。

次にその病と出会ったのは、
親しくしてくださった、お坊さんが寝たきりとなった。

頭の良い方であっただけに、
本人も、介護する側も口で言い表せない苦悩であったろう。
人生の理不尽さを、心底感じた記憶が今も残る。

科学の進歩著しい現代にあってもなお、
解明されない、病に苦しまねばならないのかと、
目頭を熱くした。

愛する人が、人が人として生きる最低のラインを下回ったとき
周りはやさしくなれるだろうか…。

いや、そうならなければならないのだろう。
そしてまた、知ったものは、
わが身に当てはめてトレースしていくことが必要なのだと思う。

3月10日に想うこと

3月になると決まって戦争の、というか、
空襲のことが頭から離れなくなる。

横浜市民でいたときは、
さほど気にも留めない話題であったのだが、

東京に、引越した初日に東京慰霊堂に出くわすほど、
過去、帝都と呼ばれていた、東京と言う町には、
爪あとが、ここそこに残っていた(る)。

横浜は、子供の頃、空襲で焼け落ちた焼け焦げたビルが、
馬車道から本町にかけて、かなりの数残っていた。

幼い頃の記憶だったからか、浜っ子には、
戦中の文化史財という意識が薄いためか、
かまわず真新しい町に生まれ変わってしまったために、
目に触れて残るものは、数少なくなったように感じる。

一方、東京においては、成人してからの記憶であり、
そしてまた、商売柄ということも一役買っているのかも知れない。

「慰霊堂」つまり「陸軍被服廠(ひふくしょう)跡」は、
当時とにかく、恐ろしかった。

訪れたのが、夕刻と言うこともあったが、
何ともいえない雰囲気を漂わせていた。

鈍感な僕でも、これくらに霊気は感じる。
そんな状況だった。

政教分離とかいうことで、東京都が直接手を出せない。
ゆえに、外郭団体をつくり、公園管理を依頼していた。
国の政策で亡くなっていった多くの命に対して、
なんともはがゆい「管理」をしていたのだ。

地元有志、仏教会が供養を続けていたが、
誰よりも一人の心ある方の頑張りによって、
供養が支えられていたことをある縁を通じて知った。

もう四半世紀が経ってしまった。

信じられないほど整備され、
何十万柱の無縁仏が眠っているなんて、
これっぽっちも感じない、
明るい公園内にわずかながらホッとするのだ。

4月15は横浜空襲。
http://www.history.independence.co.jp/ww2/index.html

海は広いな・・・

忙しい時間を割きに割いて、国際展示場までアシを伸ばす。
「japan shop」最終日に何とか滑り込んだ。
本当に久しぶりだった。

でもどうーーしても、

確認しておかないとならないことがあり、
出かけたが、

行くと連鎖反応的に次から次に
課題が生まれてくる。

問題解決に行ったのか、
課題をもらいに行ったのか、わからなくなった。

昼飯はまず取らない。
一緒に出かけたものならわかるけれど
よほど忍耐強いか、
好みが全くもって同じかでもない限り

へとへとに疲れ果て、文句の固まりになって帰るのが落ち
というような、廻り方をする。

要するに貧乏性なのかもしれない。
しかし、向学心に燃えているんだ、と言って欲しいと
本人は希望している。

まあとにかく、本日も独楽鼠のように、
くるくる廻った廻った。
目も回った。

そんなときブースのはずれからみえる東京湾は
生きた海とは思えない鉛色であっても、

ホッとする景色なのだ。

百花繚乱

椿、たぶん院宣と思うけれど、
取引先の職人さんの玄関先で見つけた。
ブログを書くようになってから、
小さな変化にも目が行くようになった。

15日前後には桜もほころぶとか聞くし…
椿も梅も桜も、いっぺんに咲き競い合うのだろうか。

極楽結び

S女史との笑い話から、
本気が転げ落ちた…というのか、

ヒントが、それこそポンと生まれ出た。

それが、数日前の話。

実際に編みこみをやってみると、
紐が細すぎて、思うように形にならない。

ようやく、見れる形が整った。

阿弥陀経の一節から生まれたのだから、
「極楽結び」とでも呼ぼうか。

歴史にifはないけれど…

近所のお寺の概観

かなりモダンである。
今でこそややもすれば寺として、
ビル郡の中に見逃してしまいそうな風貌だ。

猫の額(失礼)のような寺域の中に
コンパクトにまとめられている。

しかし、
古地図を見ると、当時は、相当大きな寺領を有している場合が多い。

http://map.yahoo.co.jp/kochizu/maptop

文字通り、寺町だったのだ。

古地図と重ね合わせながら、
近所を散策していると、
思いがけず新しい発見があるものだ。

東京・・・、特にこの近辺、台東区、墨田区、江東区は、
とにかく天災、人災による文化財への影響は甚大だった。

浅草寺にあっては、推古天皇の時代からの寺である。
平安京よりはるかに古いことになる。
その歴史を考えるだけでも、見方が変わる。

京都の町並みを以上の風情が残っていただろう…
「京都行こう」ではなく、
  「東京行こう」だったかもしれない。

もし、震災や空襲などなかったとしたら、
どれほど、この町の風景は違っていたのだろうか・・・

と、想像され、天災や先の大戦で失ったものの大きさを
改めて気づかされる。

春の足音

暖かい暖かいと言われていても
実際に花の顔を見ないと
春は、実感として感じない。

向島

店の女の子に、
「今日は何の日だ」と朝一番に聞かれた。

「何だっけ?」いつものすっとボケでフェントかけようと想う隙も与えず、「女の子のお祭り」
要するに、「桜もち食べようよ」
と言いたいのだ。

長命寺の桜もちを買いに行くとする。
墨田公園を通り、言問橋を過ぎ

さらに上流の桜橋を渡る。

平山郁夫のモニュメントができていた。

橋を渡るとそこは向島。
七福神の一つ黄檗宗の弘福寺

まだまだ料亭の町


(向島見番から言問橋方面を望む)

桜もちの名前にも冠されている長命字本体はこちら。
天台宗の寺院で、もとは、浅草寺とは本末の関係にあった。

    

その裏手にある
目的のもち屋に着いた。

何しろ、むきになって走ってきたからね。
少々疲れた。ヘーヘー

 
おー横浜や埼玉のナンバーもあるよ。

急いで買って帰ろう・・・
と思いきや・・・
「本日は、予約販売のみとさせていただいています」

だって。
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まあ、地元の強みだね。
生麩饅頭をめげずに買って帰る。

ひなまつり

我が家で待つ、紅一点のために

浅草には珍しく、パテシエが近所で創作ケーキを作っている。
ケーキより、門前町らしい、
店頭のディスプレーに魅入っていたのだが、

徐々に、こんなディスプレーを施す店の
ひな祭りケーキとはいかなるものか、
興味が湧いてきた。

店内は、広々としており、
白を基調にした棚に個性的な洋菓子が並んでいた。

ついふらふら…
あれと、これと、

誘われるままに買ってしまった。
(誰も誘っちゃいないって?
まあ我がうちなる声とでもいうことでしょうか…)

これは、上さん用だ。


(他に限定モンブランもあり)

家で待つ紅一点の上さんのために
・・・という名目で・・・