散華

今日は、遅くなっちゃった。

と少しばかりあきらめながらも

月初めの参拝に、九段下に走る。

出迎えは、いつも大鳥居と狛犬。

ふっと、見ると、何度みたかわからない狛犬の顔が

やけに新鮮に見えた。

少しばかり、こっけいな顔の表情に

つい立ち尽くしてしまう羽目になった。

昇殿参拝を終えてさっと帰るはずが、

どうも遊就館は、抜くことができない。

若い頃は、同じ若者としての立場で、

命(みこと)の遺志を、自分と比較して読んだ。

今は、

19、20という子供たちが、国と家族を想って散華した心を

親の目で読むようになった。

そうなると、遺書は、また違った輝きを発して

見えるようになった。

ふと見上げると

恐いくらいだ…。

上を見上げると、どんな都会にいても
自然を感じることができる。

自然を感じると言うことは、
生かされていると言うことを確認できること。

何千mも空気の層がのっかっているんだ。僕の頭に。

春だよ

墨田公園の桜も

隅田川の都鳥たちも

川面の屋形船も

お店の猫も

春めいてきたね…

一枚の表紙絵

前から気になっていたことがある。

上さんが塾の講師をしていることで、
隔月購読している本がある。

塾ジャーナルという情報誌なのだが、
問題はその表紙である。

http://www.manavinet.com/book.html

読み始めの頃、へーこんな本があるのか…
関心があるのでもなく、自然に表紙に目が落ちたのだ。

「ホー。市電か…珍しいな」程度の驚きだった。
回が重ねていっても、チンチン電車の表紙は、
よく書き込まれた、雰囲気のある絵のシリーズだった。

しかも、手抜きがない。
好きな人間どうしには感ずる何かが、
オーラのような何かが表紙絵から出ている。
どういう作家か興味が湧いた。
が、が、が、
調べていたが、いっこうにつかめない。

灯台下暗し。
ようやくネットで検索することを思い立った。

一発回答。
「鈴木城氏」がその作者名だった。
神戸生まれ金沢美工大後教師を続けられている。
神戸市電の本も出版されたようだ。
なるほどね。

どうりで…である。
この描写が生まれる訳がわかった。

と、書きながら、一つ気付かされた。
「いい仕事する為には、愛が必要なんだ」
好きを越えて愛情を持って仕事に向かうとき、
伝わるものが生まれるんだろうなあ。

そういう仕事をし続けたいね。

銀杏にまつわる話

20年ほど前に浅草寺で仏壇供養をしていただいた。

環境保護を叫ぶ今では、想像もできないが、
古い仏壇を野焼きするのである。

仏壇を30基近く供養して…つまり燃やした。

まだ、お寺とのお付き合いの仕方もよくわからなかった頃。
未知の世界がただ楽しくて、
胸をどきどきしながらも許可をいただきに寺に伺った。

浅草寺境内の仕事となると、
仕切り役がいることを始めて知った。
根回しがあれこれと必要であることも知った。

江戸から明治の大親分、新門の辰五郎の筋に当たる
株式会社新門の門を叩くことになった。

鳶の看板を持つ方と始めての付き合いに
かなり緊張しながら言葉を選んだ記憶がある。

けれど、縁のないどころか、
むしろぼくの先祖にとって、浅からぬ関係のあることは、
胸にしまっておくことにした。

見るからにスカットした若衆が、
当日の責任を持ってくれる算段で
仏壇供養を行なう手配となった。

溜め込んだ仏壇は、当日持ち込まれたものも含めると
予想をかなり上回った。目通しではきかなくなった。

浅草寺の導師、式衆の読経の中、
仏壇に火がかけられると、

はじめ、ちょろちょろとしか燃えず、心配したが
あっという間に、人の3~4倍の高さの炎が渦を巻いて立ち上がった。
あまりの勢いに、皆が慌てたのは言うまでもなかった。

すべての仏壇が灰に戻ったとき、
会場を取り囲んでいた銀杏の葉が、
全て黄色く色づいていた…焼けたのだ。

今でもその光景は、目に焼きついて離れない。
それらが、戦火を潜り抜けてきた、有志たちであったことは
後で知った。


物言わぬ伝言者。銀杏。

おばけ煙突

ぼくと同世代(昭和30年代)以上の方なら
まず覚えていらっしゃるだろう。

横浜に住んでいた子供のころ
おばけ煙突の話題はよく出た。

「おばけとは一体なんだろう?」と
子供心にその正体は奇々怪々であった。
おばけのように、消えたり現れたりとするものなのか、
誰かを化かすものなのか・・・狸じゃああるまいし

テレビだか映画の合間の日本ニュースだかで
はじめて、その威容に触れた。

「なあんだ。ただのでっかい煙突じゃあないか」
当時は、風呂屋の煙突も乱立している時代。

でかい煙突は、まあ見慣れた光景ではあった。

しかし、それでもでかかった。

見る角度によって、4本、3本、2本、1本と変化する。

子供心に不思議で不思議でならなかった。
そのうち本物を見ることもなく
取り壊されて、記憶からも消えていった。

浅草文庫のあるテプコ浅草に寄り道中
二階に上がると突然、
ふるい記憶の主に出逢うことになった。

それがこれであった。

4本に

3本に

2本に

1本に

ほー こういう配置だったのだ。
模型でようやくなるほどと理解できた。

45年目の理解である。

本物は、黒々と天を突き抜ける威容…異様さで
おどろおどろしく見えた。気がしたが…

千住火力発電所という。
下町っ子は、生活の一部のようだったんだろうな。

新商品

コーヒーのお香ニューバージョン。
今度は、ブラックコーヒーだって。

ちょうど昔懐かしい、コーヒーガムの香り。

さて、お酒のお香もあるし
どうなるものやら…

テプコ浅草館

仕事で合羽橋道具街に足を伸ばす。
といっても、自転車で行けば至近距離。

帰り道、かわいい河童のどうぞに声かけられて

「じゃあ」とばかりに冷やかしてみる。
浅草文庫を持つスポットなのだ。
場所が、ちょっと離れている為に、人目につきにくいのだが
浅草の歴史資料的には、とても参考になる蔵書を所有している。

一階では
ちょうど都電の写真展示をしていた。


昭和42年当時の映画ニュースを流していた。

しばらく立ち見をしていると、
「でかい図体でのろのろ走る」
「前近代的のりもの」
「赤字解消の為には早急に廃止」
「終わるときだけ、人気者」

アナウンサーの言葉に、実に、
情緒的にも実務的にも、作為的な誘導を感じた。

「同じ論法でいったら、バスも地下鉄も公共交通は全て廃止になるわ。
こういうのを、作為的ミスリードと言うんだなあ」
などと、思いながら、二階への階段に向かう。

30年代を知る人には懐かしい光景だ。
ミニアミューズメントにちょっと古い浅草を思い起した。

3月が近づくといつも思うこと

浅草近辺を歩くと戦争の傷跡がここそこに
案外と残っている。
観光地であるだけに、表立っては目立ちはしない。

いい例が、浅草寺境内の銀杏の木だ。

空襲時に焼け落ちた幹から、
いつのまにか新芽を出して今に至る。

近寄って目を凝らしてみて欲しい。
戦争の傷跡が、多く残る。

墨田川に出る。

今は、ウォーターフロントの玄関口
花見となれば屋形船が、川面を赤く染めるその場所は、

空襲当時、川面全体に、
逃げ切れず飛び込み力尽きたのであろう
多くの遺体が打ち寄せられていたという。

幼い命も母に抱きかかえられたまま、
あるいは、
恋しい母の手を離れたのであろう
いたいけな亡骸も、
数多く引き揚げられたと聞く。

そうした光景を知る近隣の有志によって、
建立された供養碑は、
吾妻橋のふもとにて、
今でも、花が切れることもなく祀られている。

浅草から、アサヒビールのモニュメントに
顔を向けるときは、

雲子ビルの滑稽さを思うと同時に、

その足元にある
殉難者の碑に、いつも思いをはせるのだ。