光よ
待ちかねたぞ。
店頭…
じゃない転倒…
じゃない。
ついに点灯じゃ。
ピッカー
そして…
そんでもって…
ついでに…
まあ浅草らしいでしょ。
おまけにこれもだ…
今日もきれいでした。
光よ
待ちかねたぞ。
店頭…
じゃない転倒…
じゃない。
ついに点灯じゃ。
ピッカー
そして…
そんでもって…
ついでに…
まあ浅草らしいでしょ。
おまけにこれもだ…
今日もきれいでした。
ようやく浅草にイルミネーションがついた。
雷門から駒形橋にかけての通り(並木通り)にである。
前にもお話ししたように
ここ浅草は、すでに正月モード。
浅草寺を中心の門前町だからしかたないにしても
いささか、気を遣いすぎじゃないのって思うことも…
ロケーションを最大限に活用するという意味では
地元愛に満ちているとも言えなくもないが。
東西霊性交流(東洋と西洋の宗教交流)が盛んになりつつあるのだから
ツリーの飾りが雷門にあっても
目からうろこで、たまには良いと思うのだけれど。
ともあれ、早く点灯しないかな。
この浅草という土地柄、
海外のお客様のご来店が非常に多い。
この数年は、特に中国本土や東南アジアのお客様が、
明らかに目立つようになってきた。
以前は、欧米の方がほとんどだったのに。
こんなところにトップダウンの情報より、
草の根経済学のほうが、
現状の世界経済を肌身に感じるところだ。
海外のお坊さんもずいぶん来店される。
以外に思われる方も少なくないだろうが
西欧への日本の僧による布教は歴史が長い。
青い目の修行僧は、日本の本山で修行して地元に帰り寺を建てる。
そうした修行僧もいれば、アジアのお坊さんもいる。
開店早々、初めて接した外国のお坊さんは、
開放前のポーランドの雲水(修行僧)だった。
東欧圏から国を抜け出し、
禅の修行にこられていた若い僧だった。
下手に帰れば刑に服さなければならない。
命がけで修行していた顔は神々しくも感じた。
韓国、台湾、中国、ハワイ、米国、ドイツ、フランス…
本当にさまざまだ。
最近、
シンガポールの雲水さんとお付き合いをはじめた。
「何でも人にあげてしまうから、何にもないの」
といつも笑いながら、少ないお小遣いをもって
店に念珠を買いに来られる。
沙門(独身で生涯を通す僧)であり、
激しい修行をされてきたであろうことは微塵も見せない。
でも、わかるよ、それくらい・・・
指に文字通り火をつけ、仏を供養する。
しつこく聞き出す僕の要請に応じ、信仰の決意の一端を漏らしてくれた。
目がきらきらした青年だ。
国を越えてまで修行を極めようとする心が、
かの昔、日本の僧が命がけで荒海を越え、
唐の国に仏法を学びに行ったその姿とダブってしまう。
毎回顔を見るたびに
何とも言えない、すがすがしい気持ちにさせられるのだ。
浅草は、すでに正月モード。
タイムマシンで時間を先取りしたような気分と
クリスマスを飛ばしてしまって損したような複雑な気持ちになる。
やっぱり僕は日本人なんだと思う。
仏教と神道と道教とキリスト教とが渾然一体とした文化が好きみたい。
浅草にクリスマスはいつ来るんだろう・・・
夜、浅草寺の境内を歩くと、
銀杏の美しさに感嘆符を打つ。
はらはらと見てる間にも降りつづく。
落ち葉が積もる光景に思わず一句もれる。
「お地蔵のあたまに黄色い雪が降りつもる」
いよいよ師走。
空もこのようす。
気持ちのいいこと。
ようやく足を伸ばせた靖国神社。
昇殿参拝が終わるや否や、靖国神社をあとにして
最終日を二日後に控えた上野の仏像展に急いだ。
急いだといいながら、
この天気のよさに初めて飯田橋まで歩くことに。
靖国通り沿いは雰囲気のある街路
ど根性根っこにも出逢う。
(まあどこにでもある光景だけどね。都会の木はかわいそう)
目的は、こちらだったのだが滋賀県向源寺の十一面観音思いがけず宝誌和尚の像に出会い魅入ってしまう。
墨田公園もちょうどよく色づいて
セーヌのほとりのように雰囲気のある空間を作っている。
木漏れ日の中に人の温かみとあいまって
居心地がいい。
春は桜で混みあっている同じ場所とは思えない。
本当に美しい。
ほんの数分で、とばりがかかる。
花よりだんごは、駅に戻る。
こっちのほうが懐かしいと思うご同輩も多いだろう。
朝一の日課は、メールチェックとmixiチェック、
それとお米とぎ(^^
弁当用のごはんが足りないと思うと、つい手を出してしまう。
子供のときからの習慣だから眠気覚ましには丁度良い。
うちのお米は、上さんの熊本の実家から送られてくる。
結婚してから、このかた肥後米で養われてきた。
子供たちも肥後の水と土で育ってきたようなものだ。
農家の娘とはいえ、親は凄いと思い知らされている。
初めてこの肥後米を口にしたときの驚きは、今でも忘れない。
多少柔らかめながら甘く、しっかりした味がある。
何より、次の日冷えてからが美味しいのだ。
おにぎりになんてすると、たまらなく美味しい。
スーパーに行くと、いつも肥後米を探すが、
見つけたためしがない。
流通量が少ないのだろうか。美味しいのに…。
少し調べてみると、江戸時代は米価を決める重要な銘柄だった。
明治から昭和初期までは、美味しい米として全国に知れ渡っていたようだ。
以前、店のものと歓談しているとき、米の話が話題になった。
もちろん、肥後米を話題にしたのは当然だった。
案の定だれも口にしたことはないようで、
肥後米の宣伝マンとして、話題をリードし盛り上がった。
しかし、ちょっと口を滑らした。
「今でこそブランド米どうの言うけれど、
昔は古米、古古米当たり前だったし『米穀通帳持』を持たされて、
買いに行かされたよね」と発言したとたん・・・
冷ややかな空気に包まれた。
「米穀通帳?なんですか?それ」
って、皆口をそろえて、のたもうたのだ。
結局、米穀手帳を知るものは、上さんを含め、
僕の周りには、 一人だにいなかった。
まあ、農家の娘は別として、東京育ちにまで、
記憶がないといわれるとは、いささかショックだった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B1%B3%E7%A9%80%E6%89%8B%E5%B8%B3
中学生のころまでは、たしかに米穀通帳を持って
米屋に古古古米を買いに行った。
「配給」の名残、
つまり「戦後」を、ぼくは体験してきたということなのだろうか。
手元に国土地理院昭和49年版20万分の1地形図がある。
20万図といわれている地図だ。
区分けは「岐阜」
パソコン脇が彼の定席となっている。
頭がいっぱいいっぱいになってくると、
広げて道を追っているだけで、ぼくの頭をほぐしてくれる。
サイクリング、主にパスハンティングというジャンルで
全国の峠や温泉を巡っていた時の相棒の生き残りである。
几帳面に隅を裏返しに折りたたみ、地図どおしのつながりが取れるように、
山屋なら誰もがするであろう畳み方をしている。
黄ばんでいる角が時間の経過を感じさせられる。
いつでもスタンバイOKよ、といわんばかりに自己主張している。
何故この地図を買ったのか良く覚えていない。
赤線が、道路上に引かれていないから、
出番なく終わったのだろうことは、容易に察する。
多分、越前街道を走り金沢に抜けるか、九頭竜湖あたりか、
琵琶湖周辺を狙っていたのかもしれない。
改めて眺めていたら、関が原、長浜とNHK連ドラの舞台であったことに気付いた。
昔なら、一もニもなく、自転車担いで飛び出しただろう。
が、しかし、手かせ足かせが多すぎる。
今しばらくは、机上ツーリングとならざるを得ないだろう。
あ!体力は別問題です・・・
仕事の道具を見つけに南千住に足を伸ばした。
目的地はダイソーのメガショップ
要するに100円ショップ。
早々に目的は達した。
相棒がまだ買い物を続けているようなので、
もてあまし気味に店内を物色する。
書籍コーナーに懐かしい名前を発見。
つい手が出てしまう。
「荘司としお」のチャレンジ君
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%98%E5%8F%B8%E3%81%A8%E3%81%97%E3%81%8A
昔、同作家の「サイクル野郎」にワクワク胸躍らしたものだ。
(それがきっかけで生涯の趣味になったのだから…)
村野守美の「オサムとタエ」も含めて4冊、
続けざまに立ち読みしてしまった。
冷ややかな視線に気付き、振り返ると呆れ顔で相棒が見ていた。
慌ててカートに隠す。
貝塚ひろしも好きだったなあ。
良識的な、冒険ものを書いていた漫画家は
どこに行っちゃったのだろう?
久しぶりに見た漫画を見ながら、
子供を取り巻く環境が本当に変化していることを改めて気付かされた。
子供の頃は、メディアにしろ漫画にしろ、
それをきっかけに、チャレンジ精神に火をつけてくれるものが多かった。
ミクシーの書き込みに、20歳の大学生だろう
人生の目標や熱中することを口にできないことを嘆いたのを思い出す。
熱心に論議する土壌がないという。
ややもすると、「うざってえなあ」と嫌われたり
いじめの対象になるのだという
脳裏の隅にも起きない思考回路だ。
冒険心に火をつけても消して廻る輩も多いということなのか
ゲーム世代の子供たちは、ゲームの後、
次のチャレンジとして、何を所望するんだろう。
さらに新しいゲームだろうか?
刺激的なゲームだろうか?
夢の種を与え続けてくれていた時代とは、
まったく異種な時代に今あるように思った。
末っ子の小学校生活最後の学芸会があった。
土曜日ということで、時間を搾り出すのには、いつもながら苦労する。
学校の行事には、過去、何はともあれ駆けつけた。
十年を越えればいい加減に、飽きてもよさそうなものだが…
バカ親なのかなと我ながら考える。
低学年までは、演目は何なのか、何の役なのか、事細かに、
時にはリハーサルまでしてくれて当日前に、
ほぼプレビューのおかげで頭の中に完璧に刷り込まれての確認のための鑑賞であった。
高学年の今は、さっぱり情報が入らない。
当日、催しがあることすら、知らされないこともざらになって、
親としては若干の寂しさも否めない。
まあ、振り返れば同じことを、自分のしてきたのだから、
報いといえば報いなのだ。
きっと、世の親は頼もしくなったと慰められるのだろう。
ともあれ、つかの間のおひまをもらって、のぞいてみた。
ジャストタイム!前の演目が終わり、6年生の劇が始まろうとする幕間だった。
この浅草も都会の学校の性で、ご多分にもれず
、学年合わせても70名そこそこの文字通り「小学校」だ。
学区外からの電車通学者も多い学校で、○○ちゃん遊ぼうよで集まる人数も底が知れている。
まとめるのが難しいだろうことは容易に察っする。
演目は、「南中ソーランの誕生ドキュメント」だった。
南中ソーランと聞いて何のことやらわからない諸氏も多いと思うが
ぼくもその一人だった。南中って何?素朴な疑問 。
http://www.ecpla.net/nantyuu/nan_rekisi.html
である。
全国に感動を呼んだあのロック調のソーラン節で
「ソーランソーラン」って踊りまくるやつでしょくらいのものだった。
稚内の校内暴力で荒れていた中学校が舞台で世に出てきたことを演じたわけなのだが、思いがけず感動した。涙腺を押さえるのに苦労した。
親ばかとしての感動ではない。なぜなら
愚息の出番は、幕が開いて活字にして2行の台詞で終わってしまい、
その後は、集団に飲み込まれ、全く識別がつかなかったのだから。
感動しようがない。
純粋に、劇として感動した。
見渡せば涙を流している父兄も我が妻も含め少数ではなかった。
最後は、例のドッコイショの踊りでフィナーレだったが、
アンコールを取るほど盛り上がって幕を閉じた。
思いがけず、思いがけない感動をもらう事ほど、
これほど得した気持ちはないなと正直思った。