浅草のそら
そろそろ昆虫も動き出す。。。
浅草のそら 今日は墨田公園内で流鏑馬。神事?
墨田公園内に砂が盛り高く置かれ馬場を形作っていた。
あ!もうそんな季節なのかぁ。
浅草のそら
昨日は神奈川県の伊勢原に足を延ばしました。ちょっと調子悪いのでどうしようかと迷ったのだけど、お互い逢える時に逢っておかないとどうなるかわからないので、思い切って出かけた。
5年振りの友人はそれなりに老けていた。って言ったらお互いさまでしょって返された。
丹沢山塊は神奈川県人には特別のものがあります。富士山より大山に対して思い入れがあるかもね。なんだか癒される。
旨いそばを奢ってもらいルンルンしながら話をしていると、クラブメンバーが孤独死していたことを聞かされた。いささかショックだった。僕が前の仕事を辞める時強烈に反対してくれた友人。ゴーイングマイウェイな男で、一緒にツーリングしていてもどこかで一度は消えてしまう。そんな彼のクールな目を思い出した。こうやって今話している目の前の友人もあと3年もすれば80歳だもん。信じられない。木曽路を竜飛崎をあちこち走って登って下っていた仲間が80だって。。。80を超えて走れる趣味がいいと思って自転車とうまがあったTONだけど、そうか~~~。そうなんだね。
さ、今日もがんばるぞ~
この日は大山、別名雨降山の独特のとんがり頂上は見えませんでした。帰るころは案の定小雨が降ったみたい。
浅草のそら
浅草のそら
この季節、いや今年だからみられる風景が面白い。
4月と5月が同居している。
そんなのを楽しみながら朝、ブラブラと町を歩いているTONだ。
浅草のそら
昨日は久々に家族サービスで潮干狩り。
今までなら潮干狩りと言えば千葉の木更津あたりを連すするのだが、今回ははるか手前の至近距離である横浜の金沢八景。
八景のイメージは、母校と漁港しかないのだが、そもそも金沢八景に足を運ぶことすらなく記憶のページにはなにも書きこまれなかっただろう。
僕の世代の浜っ子にとったら、コンビナートになる以前の根岸や磯子の海が身近にあったし、港町横浜の海が遠く離れた所にあるなんて考えもしなかったこと。小学校も高学年になると高度成長期に入りやたらダンプカーの目立つ街並みとなっていくのと比例して、海は身近なものから遠い存在、船が横付けされはしても裸足になって遊ぶ場ではなくなった。
いつの間にやら、浜が帰ってきていた。
家族サービスでいたつもりのTONであったが不覚にも波打ち際の転寝の気持ちよさを人工浜で味わうこととなってしまった。
家族に引かれることでもなければ、訪れるはずもないこの浜に魅力を感じさせてもらった次第。
人工とはいえ立派な松もあり、いずれここで育っていく子供たちの幼き頃の印象の一つと脳裏の一ページに書きこまれていくんだろうな。
それにしても松影の居眠りは心地よかった。
浅草のそら
駒形堂の八重桜はまだ満開に至らない。
春の交通安全週間の期間になるのにここの桜が散っていないのは初めて見る光景。
もう五月の目刺し。。。おっと鯉のぼりでした。
浅草のそら
だんだん朝、夜明けが早くなってきた。ここ数日3時前後に目が覚めてしまいその後は寝る気が起きないのでしらじらとなるまで起きている。
真冬だと7時近くにならないと夜明けにならないので二度寝してしまうが、この季節どうしても外に飛び出したくなるので、そんなら起きてウォーキングしようとなる。
昨日は久しぶりに愛する故郷横浜に足を延ばした。
まぁ、みなとみらい地区なのでTONが浜っ子現役の時代には三菱の工場敷地で占められていて横浜駅東口のそごうあたりから桜木町駅裏あたりまでは、ブラックボックス。たまに煙で存在感を示す作業用の小型の汽車が走る労働の町が原風景。
まったく馴染みがない地域ゆえ、過去、何度みなとみらいの駅に降り立ったかわからないが、未だにまったくと言うほど故郷を感じたためしがない。
そんなわけで用事を済ませて帰路に就こうとしたが、物足りなさにまっすぐ帰る気がせず、少しばかり回り道を使用となった。
どこを?子供時代の記憶に添って横浜駅まで歩いてみようかと心が動いた。
六角橋から馬車道までの区間は小学校低学年時代から目の治療のため何度往復したか知れない。少し大きくなれば、途中にあるもみじ坂上にある青少年センターの常連で意味もなく通いづめていた。
要するにチンチン電車で腐るほど通っていたわけである。目をつぶっても歩ける。。。と言うほどでもないが馴染みの道であることには間違いない。
高架上を走っていた東横線は今はなく残骸のようなガードの連続が形ばかり残り、一国沿いの古いビルもまるきり建て替えられ、心に沁みてた風景も今は昔なのだ。
もう歩くことはないだろうな。。。