浅草のそら

陽に当たるだけでじりじり皮膚が焦げていくのがわかる。
自然ってこんなに厳しいものだったっけ。。。

浅草のそら

「海の日」です。世の中はお休みです。
「海の日」があるなら「山の日」もと言われて久しいですが、海の日は明治の御代に移行した時のひずみに犠牲となって生じた怨みを解くために心砕かれた明治天皇の大御心に基づいた記念日なのでありますが、どれほどその真意が今に伝わっているのか少しばかり不安になります。
TONの母方の実家は仙台藩の南の関を守っていたと伝えられています。
曾祖母がいつも口にしていたのは、山を越えて進軍してきた官軍の首をいくつも切って門前に掲げたと。誇らしげに語っていたそうな。曾祖母を嫌う母の口からはそんなことしていたから私が病気ばかりしてきたのよ。だった。とまぁ家庭内の事情は置いておいて、戊辰戦争の終結にはどれほどの血が流され続けていたのだろうこと、想像すると背筋が凍る思いになります。そんな怨み多き東北の地を御巡幸されたのが明治天皇であったこと。そしてその地を巡られ船にて横浜の港へ御帰還をされたのがこの日であったと言う事なのだ。

浅草のそら

以前は朝一番から陽を浴びていた雷門。今は高い建物に阻まれて陰になる。時間を少し置けば雷門にも日が当たり今日の始まりを感じますね。
観光センターの建替えの時の反対理由が思い出されます。観音様の入口が陰になる。が理由だったけど、夏場でこの様子だから、太陽の低い冬場はどうなるかは想像に難くない。

都鳥と思っていたけど猫のような鳴き声からするとウミネコ?ん~~~~どうなんだろう。とにかく活発。

強い日差しが気持ち良いくらいの朝、スカイツリーあたりを一巡して戻ってくる時ふとふりかると向こうの島あたりや亀戸方面の低地に水を張ったらとか勝手に想像連鎖してしまう。
もう少し上流に行けば昔の船着き場跡になる。頼朝の時代はどうだったのだろう。まして1400年前の浅草浦の時代は・・・と当時の光景が展開されるTONなのであった。。。

浅草のそら

ちゃんと自然は生きている。
何処に生息しているのだろう。この時期になるとちゃんとモンシロチョウもアゲハ蝶もシジミ蝶も鼻に寄ってくる。都会の通りのささやかな花壇なれど、蜜を求めて集まってくれるのだ。
燕はいつの頃からか何処かに行って戻ってこないけどね。

浅草のそら

別に画面を誇張しているわけではない。
でも地面が歪曲して見える。
それもそのはず巨木の根っこの生命力に敷石がぐいぐい持ちあげられているのだ。
いったいいつまでこの状態のままにしておくのだろう。
以前はこの交差点(吾妻橋西詰)の三ヶ所にはくすかな楡かな、巨木が植えられていて夏場の日差しから守ってくれた。雨になれば傘に早替わりしてくれもした。
けれど一本は工事の都合で伐採されてしまった。
もう一本は同じ時期に植えられたであろうが、さほど巨大化はしていない。
この一本がなぜかぐいぐいと両手を延ばし深く根を深めている。と同時に舗装を突き破らんかな見事に弧を描かせている。
成長する過程で根本の保護なのであろう幹の回りを覆うインターロッキングは雨水の吸収を妨げるだけの代物となっているのに、未だ根本を覆い隠している。
はたから見ていると息苦しくて仕方ない。
よく暴風の吹く時期、街路樹が倒壊した映像が流れる事がある。風の強さばかりが話題となる。
けれど見上げるような大木にもかかわらず、ほんのわずかな根っこが白昼の下にさらされる事がある。
街路樹は日常的に車両に踏まれ成長を妨げられる。だから歩道側にのばして行くしか手はない。
専門家ではないから樹木の声は聞く事ができない。
が、素直な心で木に聞いてみるとよい。

確か樹木の根は枝っぷりの広さと概ね=なのだと聞いた事がある。
何十人もの人々を覆い隠してくれる大木の根本が人一人程度の広さの窓が空く。そこから息をつく。水分を補給する。ほんとだろうか。
こんなんで生きていけるの?

そろそろ環境を変えてあげてもよいのではなかろうか。
今はどんな巨木だろうと平気で切り倒すそんなセンスのない時代に見える。
数十年くらいの樹木では歯牙にかけないのだろうけど。

浅草のそら

台風が近づいている割には・・・やっぱり蒸し暑いや。

やったらヘリコプターの音がうるさい。救助ヘリかな。
また川に転落したんだろうか。。。お盆だと言うのに。