
難波淳朗という方

今の雷門店を開店する時だから昭和から平成元年になろうとしていた頃。
写経でお世話になっている佛心寺の永井一灯師に紹介いただいてお付き合いをさせていただくようになった。
荻窪あたりの喫茶店で待ち合わせた。
待ち合わせの時間通りにいらしてくれた。
初対面の僕に開口一番おっしゃられた言葉が、
「僕はこの人は大した坊さんだと思っているんだよ」
だった。
「僕はクリスチャンだけど僕の葬式にはこの人にやってもらいたいと思ってる」とも。
ペトロというクリスチャンネームもお持ちの方が、なぜゆえにいくつも写仏の教室を持ち、しかもお寺さんを含めた熱烈なファンをお持ちなのか不思議でならなかった。
けれど氏の描かれる絵には強烈な魂のほとばしりを感じた。
「僕の観音様はマリア様なんだよ」
そんなTONにそっと教えてくださった。
観音様が筆先に顕れるまで2日も3日も寝ずに描き続けた。
片肺を失うほどの華奢な体のどこにそんなエネルギーが潜んでいたのだろう・・・
難波先生のアトリエに何度も足を運ばせていただく中、直に肌で感じる機会を与えられた。
TONなりに合点がいった。
鬼籍に入られて、もう四半世紀が経とうとしている・・・・
ただ、いつか行こうと言っていた坂村真民さんや京都の平安工房にはついに一緒に行くことはできなかったですね。。。
浅草のそら

日本橋中洲に歩く
取引先であり友人の日本橋の仕事場にママチャリで出向く。
以前は蛎殻町にあったものが移転し箱崎町に移ってまだ一度も伺っていなかったので、資料を送れば済むところ、仕事の依頼をしに出向いてみた。
足には自信があるとはいえ人の自転車ほど乗りにくいものはなくあれ?こんなに遠かったっけと感じた。朝のジョギングでは、両国橋まで来ているのに、「遠いーー」なんて感じたことはなかったのに・・・自転車の足でなくなっちゃたんだなぁと市松の寂しさを感じつつ歩を進めた。
途中iPhoneの地図で行き先を確認すると、なんと中洲を通る。
TONは以前、時代小説を読んでいて中洲という地名を目にした時から、勝手に妄想を膨らまして現代はどういう場所なのかと密かに伺う機会を探っていたのだった。
ワクワクしながらその街に入った。
神社や寺、時によっては墓地を探るのがその町の空気を嗅ぐには都合が良い。
今ではエアーシティーターミナルですっかり風景が変化してしまった箱崎近辺だが、江戸の昔は月見の名勝地と謳われたところという。湾岸の高速道路下には箱崎川という川がありそこに架かる菖蒲橋(跡)を渡れば、中洲となる。

もともと隅田川下流の中洲を明和8年(1771)に埋め立てられ浜町と地続きになり、芝居小屋や水茶屋などの歓楽街に変貌する。
絵の中にある葦の原の中洲が松平定信による寛政の改革(寛政元年(1789)で全て打ち壊されてしまった後の中洲にあたる。当時は三ツ俣と呼ばれていた。

それにしても街として成立していた繁華街をもとの中洲の状態に戻してしまうとは・・・
明治に入り再び埋め立てられ中洲町として栄える。
船玉金刀比羅宮もその時点で建立されているが、関東大震災時に灰塵に帰したようである。

記念碑には・・・
中洲は江戸時代隅田川の浮洲なりしを明治初年に埋立て此の地に船玉琴平宮が祀られ産業振興の神として広く崇められたり。しかし惜しくも大正十二年関東大震災の為に烏有に帰し再建の機運に至らざりし所、湯浅勘次郎氏の夢枕が機縁となり同志相諮り此の地を卜して四国琴平宮の御霊を遷座奉祀し広く繁栄の守護神として茲に建立し奉る。
昭和二十九年十二月吉日
とある。
湯浅勘次郎氏がどういう方なのか分からないが、少し調べてみたがほとんど資料は見当たらなかった。唯一該当するのか分からないが、戦時中の日本船籍の船主の名前に同名があり、海の守りに欠かせない金比羅さまという神様と関係があってもおかしくないことから、篤信者の同氏の夢枕にあらわれたのかなと想像してみた次第。
神社を囲む玉垣には料亭や割烹の屋号が並んでいて土地の興りがそこはかと感じる。


東京の町は本当に面白い。
江戸をそこここに置き去りにしているのだ。
浅草のそら

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ムディター夏号です。

浅草のそら

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