
浅草のそら

桜より梅
ろうばい(蝋梅)が例年より2週間ほど早く咲きだしたと朝のニュースで流れていた。
大雪を降らせるこんな寒気の厳しい中で、実に可憐な黄色い妖精のような花がポット枯れ枝に色を落とす。
人々の目を楽しませ、明日への希望すら勧めてくれる。
日本といえば桜の国だ。
様々なところに桜はなくてならない。
桜の花が田植え時期を教える指標になることで桜木
桜餅、桜湯、
ぱっと咲いてぱっと散っていくその姿、潔さは日本人の生き方にまで影響してきた。
侍の家ではそのぱっと散るがあだとなり、家の衰退を嫌い家紋として用いられることは少なかったようだが・・・
そういえば合格通知は桜咲く。だったね・・・
桜も日本の真心として海を渡る。
ワシントンのポトマック川縁に咲く桜は東京市長の尾崎行雄が寄贈したものだがハナミズキが返礼として日本に送られてきた日米友好の証でもある。
靖国神社の標準木のソメイヨシノが咲く時をもって東京の開花宣言になり、待ってましたとばかりに桜の名所はゴミの山・・・おっとっと・・・人の歓楽の地へと変貌していく。
TONも以前はその一人でなかったとは言えず、饗宴の輪の中で楽しくリードして過ごさなかったとは口が避けても言えない一人であることは、カミングアウトしておかないといけないのだが・・・
桜の花を見ると、日本人のDNAがわさわさ動き出すのは止められないのだが、
桜の名所に住んでいるゆえに人的公害に悩まされるということ無きにしも非ず。けれど、おかげでここ浅草が潤うということで享受しているということもおろそかにはできない。
桜が日本人と切っても切れない深い仲ということを書いたのだが、好き嫌いで言うならば、最近のTONは、寒さを意とせぬ梅に軍配を上げてしまう。
なんとも心が動かされる。
清楚さ、可憐さの立ち姿なれど、梅林などに観るように、多く集まった時の見事さは息を呑む美しさにみちる。
隅田川沿いの梅たちも蕾を膨らまして準備をしているのだろうな・・・
浅草のそら

オーダー2点
白檀サーマインドで2L玉を使用しました。

かなり良い彫りのものです。
今、残念ながら作れないんです。

浅草のそら

浅草のそら

浅草のそら

浅草のそら

生死一如
昨日の日記の中でご紹介した知人からの年賀状にはもう一つ書き添えられている言葉がありました。
それが「生死一如」という言葉でした。
仏教では、「生」と「死」を別のものとして分けてとらえることはしません。
二つをひっくるめて「生死」といい、「生」と「死」を超えることを説いています。
つまり、生があるから死がある。
生の中に死があり、死の中に生があるのです。
人間は、死にたくなくても、いつかは死を迎えなければなりません。
だからこそ、命ある限り精一杯生き、そして死を迎えるのです。
だから、きっとこの言葉にある精一杯生きていきますと心底の決意の言葉なのだろうし、TONさんもそうしてね。という事なのだろうと思いました。
ありがたくお気持ちをいただいて、自分もできる限りの生き方をしようと思った次第です。
今日そのことを思い出したら関連して思い出したのが骸骨彫りの念珠でした。
そうだな。なぜ骸骨なんてグロテスクな彫り物の念珠があるのと思う方は多いのですが、いつか人間は誰しもがシャレコウベを晒す存在なんだと忘れてはいけない。
まさしく骸骨彫り=生死一如なのだということをビジュアルで現していると考えるわけです。





