最後の一本
浅草のそら
なんでもやります
今日は錫杖造り・・・といっても取り付けですが。
でもこれって以外に手間がかかるのです。
そして見えなくなる部分だけに、粗雑な仕事が多いのも事実。
錫杖部分の取替えを請けて、本体を柄から引き抜いたとき、納得の行く仕事だったのを見たことは一度もないのですから。
大体が荒削りで細く削りすぎ。
細くなってしまっているものだから、本体と柄の間に間隙ができて、これがゆるみの原因を作っていることが多いのです。
始めはこれだけ本体と取り付ける柄には太さの違いがあります。
これを削っていって、錫杖本体に合う大きさにしていくわけです。


これだけ細くなりました。

目釘を差して

出っ張った釘を切り落として

はい。終了。
いよいよ
久しぶりに昼間、浅草寺東参道まで足を伸ばした。
ここは最近、観光バスの駐車場の如く光景で様々な色の大型バスが列を連ねている。
客待ちのバスの合間を抜ける時の怖さといったらない。
戦前までは、お土産屋や老舗がノキを連ねていたと聞くし、鬼婆伝説の残る小さな池あたりには、浅草寺にまつわる一の権現社、アカザ堂といった歴史的重要な建物も会った場所でもあって、浅草を語るときには、材木町や並木町のあった雷門地区と花川戸地区ははずせない地域なのである。
友人がこの道を整備すべく奮闘しているが、その第一歩は江戸通り側にその足跡を残した。二天門通りという古い石柱の復元と東参道という古名称の復活である。
話は戻る。
ここは念珠堂のある雷門からは少々遠いし、多くの飲食店が途中には腐るほどあるのだが、なぜか此処まで足を運んでしまう。
自分ながらのプロムナードともなっていて、自然と足が向いてしまう。
しかも、外食しない主義の僕は、ただ、気に入った店は生涯行く。
行くところはあちこちつまみ食いしない。ここも20年以上通い続けている。
いつものセリーヌでカレーを食べ終わり、さて川沿いに出てスカイツリーを見ながら帰ろうか。
と、したところ、二天門にふと目が向かう。
問題はそのさらに向うにあった。
二三日こちらまで足を伸ばさなかったので気づかなかったが、浅草寺の本堂を覆っていた仮組がはずれてなにやら屋根らしきものが拝めるではないか。

もう川に向かう気持ちは消えうせて、気づくともう浅草寺に向かって走り出していた。
おっおーー

きれいな朱赤に化粧され、独特のそり屋根がお披露目されている。

なかなかきれいだ・・・

正面側の龍の絵も透けて見える。
二天門が新しくなり、元の影向堂跡地もトイレ付近も整備され緑がふんだんに増えたし
境内は随分と様変わりしてきた。

それにしても外人さんが多いなぁ・・・
神楽鈴
浅草のそら
お役
「この絵はどなたが描かれたのですか?」
店の奥で今日出荷予定にしていた念珠の最終仕上げをしていた背後からふと声をかけられた。
難波画伯の観音菩薩の絵をさして質問されたのだ。
この絵はずっと昔に、画伯が存命のころ気に入っていただいたものだった。
ご本人はクリスチャンであり抽象油彩画家ながら、死線を越え仏教に傾注していく中で一宗一派を引けるほどの器を持つ方だったが、惜しくも60の坂に入られて間もなく、惜しくも逝かれてしまった。画伯の絵に共感をもたれたお客様は多いが、今日は一味違った。
お尋ねいただいた方はある日突然観音様がご自分に顕れたと言う。
その観音様を絵になさっているという。
ちょうどお手持ちの絵があったので拝見させていただいた。
なんとかわいいのだろうか・・・
儀軌や仏教画を学んだわけでもない。
お会いした観音様を得になさっているのだという。
最近は、そこに聞こえる旋律を楽譜にあらわし、CDに吹き込んだと貴重な一枚を頂戴した。
こういうことを不思議なこともあるものだと人はいうのかもしれない。
でも僕は当たり前なことのように自然なこととしていつもながら受け止める。
さもありなん。
その方に何かのお役があるんだろう。
科学で説明できないことなんていくらでもある。
むしろ科学がまだ幼稚なだけだと思ってるから。
茶化しちゃいけない。
もうずっと以前、讃祷歌(さんとうか)を世に出した真言宗の僧侶、新堀智朝師に親しくしていただいたことがあった。
師は音符を読み書きすることはできなかった(否、この表現は正しくなかった。始めのうちはであった)。
ある日、子供が使うような大きな五線譜に耳の奥で響く旋律をやっとの思いで書き留めてみた。
わずか数小節の譜面が完成した。
人伝えに音大出のプロの作曲家を紹介してもらい、恐る恐るその譜面を見てもらう機会を得た。
プロの音楽家に見てもらうにはあまりにも幼稚すぎる譜面。
案の定けんもほろろに鼻であしらわれた。
作曲家はせっかく尋ねてきたのだからと、音符を目で追ってみた。
次の瞬間、眼の色が変わった。
生前、住職が僕にもらした。独り言のように。
「くやしいのよ。もっと早くに気がついていれば」ちなみに住職は尼僧である。
「讃祷歌を十年早く世に出したかった。そして現代に問いたかった」
と。仏教歌の枠を超えた讃祷歌はローマ法王の国連の会議室にまで招聘された。
若い頃から耳の底では、こぼれるように旋律は吹き出していたという。
けれど、多くの曲を鼻歌で終らせてしまった。
定期公演を最期に惜しまれながら彼岸の人となってしまった。
だれも天賦の才がある。
それが何かは、またいつ発芽するかも解らない。
素直にその内なる声を受け止めてみてはどうなのだろうかと思う。
自分のことが一番わからない・・・

