お天道様がみている

子供のころは盛んに耳にした。

「お天道さまに恥ずかしくない生き方をしなさい」

「お天道さまは陰日向(かげひなた)なく見ておられるのだから」

「罰が当たるよ」

当時の子供には年寄りの言うその言葉が意外と効いたものだ。

人の目は、見える所でしか判断しないけど、お天道さまは、すべて見透かしてしまうんだ。
そう理解し、しゅんとなったものだ。

しかし、最近は全く耳にしなくなって久しい天道さま。

親もそして年寄りの口からも、なかなか発せられない死語となった。
子供を叱る言葉も、
「お巡りさんとこ連れてくよ」「店員さんが見ているよ」

(見ちゃいないってお母さん)

大人は大人で「訴えてやる!」の世界である。
天道様に替わって「法律さま」が牛耳っているのである。

お天道さまはいったいどこに行かれてしまったのだろう。

自分も含め戦後教育の中には、天道の「て」の字も現れなかった。
あるのは、校則、規律、法律、契約・・・人の手によるものばかり。
人間間をいかにスムーズにするか、を問題視し解決する方便としてのもの。

人を超越した何かの意思というものを、日本では身近に見受けられないまま育つ。

法律万能と思われるアメリカでさえ、大統領就任式や裁判の証言において聖書に手を置き宣誓する姿に、法を超える何かに委ねる姿が新鮮(日本人には奇異?)に映る。

ましてや成果主義の現日本社会となれば、結果オーライの事なかれ主義とあいまって、報酬の大小、地位の高低に過程(アプローチ)、動機、が駆逐されてきたのではあるまいか。
真っ正直に生きたって何になるのさ。ニヒリズムよろしくその生き方を変えさせられて、いや、変えてきてしまう事にもつながらないとも限らない。

昨今の風潮を見るにつけ、合理主義に侵された日本人の心にどれほど、天道のかけらが存在しているだろうかと思う。

しかし間違いなく、日本人の根っこにあって社会生活をまとめてきてくれていたことは事実なのだ。

少し天道を調べてみた。

Tento(天道)。Tenno Michi.(天の道)。天の道、あるいは秩序、または摂理。一般にわれわれはデウスをこの名で呼んでいる。しかしながら異教徒らは最初の意味以外を感得しているとは思われぬ

1603年に刊行された日蘭辞典(オランダ語辞典)の中に「天道」として解された説明文だ。
宣教師たちはキリスト教の神と天道をイコールで結んでいるのがおもしろい。

江戸時代初期の心学五輪書の文中にも

天道とは天地の間の主人なり。形も無きゆえに目に見えず。(中略)人間を生ずることも、花さき乱ることも、五穀を生ずる事もみな天道のしわざなり。(中略)この天地の間に有りとあらゆる物は、みな天道のはらの内に、はらまれて有るなり。

とある。

何にせよ、陰日向なく働き続けておられる超越した存在と見ているのだ。

お天道さまは日本人の心の何処に潜んでおられるのだろうか・・・
潜在化しているだけなのだと信じている。
今一度お戻り願って(つまり顕在化していただき)、活躍していただきたいと思うのだ。

生きると言うこと

「ヒトはいつヒトになるのか」と親しい人に問われ反射的に
人と交わることで人となると答えた。

人は考える葦であるとか、笑いは人のみがなせる業とか様々なことエが用意されているだろうが、人類学的にどうこういうわけではなく自分の経験値がそういわせたのだと思う。
交わるにも僕の言いたいのは、人の縁、人と人のつながりのことだ。

自分のまだ決して長いとは言えない人生でもそれを振り返ってみると、それなりに山と谷を何度も上り下りしてきた。
いや、谷底をさ迷う時間のほうが、山上を歩くよりはるかに長かったような感もある。

人は1人で喜ぶこともできる。

しかし対象があって、その対象を喜ばせようと思考しそれを実現するときの、無類の喜びは言葉に表せない。人が感動したり喜ぶ姿を見れば、喜びは二乗にも三乗にもなって帰ってくることを経験する。
その喜びの根源がどこからくるのか知らなくても。喜びにはパワーがあるのを体感する。

僕は作家のやなせたかしの隠れファンである。
今はアンパンマンの作家として有名になったが、僕が始めてその名を知ったのは、中学時代悩みの極地にあったときからだから、比較的長い。
姉が大切にしていたマグカップの絵柄にあったたかだか数行の詩に救われたことに始まる。出逢いである。

アンパンマンの世界でお金が流通したのを見たことがない。
それもそのはずで、喜びが通貨の世界なのだ。
極楽トンボゆえにそう思うのかも知れないが、すばらしい世界だと思う。
本質的な喜びが価値を決める。

便宜上、代価がついて回ると考えたらよいのだ。
ただ、残念なことに本質を見失った金銭価値が物の本質を見失わせ横行している。

そろそろものの価値観が変化しないだろうかと思うのだ。

言葉を呑む

地元の歴史を調べるために、東京ガスの営業所内にある「浅草文庫」というミニ図書館に出かけた。
何度か紹介したことのある場所ではあるのだ。
私設ながら、浅草の文献に関しては、図書館の郷土資料室より豊富にあるので時間の合間を見計らって飛び出した。

土曜日と言うこともあってか館内は今まで見たことがないほどに人で埋まっていた。

目的の浅草文庫は二階の奥まった所にひっそりとしていた。
訪れる人もないようで館内はがらんとしていた。

入ってすぐに目に付いた「武蔵野風土記」。
手にとってカバーから抜いて中を確認しようとすると、後ろから声がした。
係員と思しき人。

「椅子に座ってみたらどうですか」
親切に教えてくれたのだろうと解釈して
「中を確かめるだけですから」と答えた。

「貴重な本なんだから」
「座りなさいよ」

「確認したら座って読みますから」と
なんだこの人は・・・

そして続けざまに、

「もう買えないんだよ」
「大事な本なんだよ」
「億劫がるんじゃないよ」

おいおい・・・。
そんなに大事な本なら展示するなよ。
のど元まで出かかったが飲み込んだ。

今日は目的があるからね。遊んでる暇はないの・・・

数冊鷲づかみに席に着いた。