普段着と正装のちがい

転読(お坊さんが儀式の時に厚いお経を頭上でパラパラめくるのをご覧になったことあるでしょ。あれです)用の経典はあーいう使い方をするだけに丈夫が何よりです。

ということで、経典の本紙に別和紙を二枚、三枚と重ねて糊付けします。
故に・・・ちょっとやそっとでは破けることがなくなるわけです。

そして経典の胴には金箔を押して、帙を制作して保護します。

もとの本が左。三昧合わせにすると、こんなに厚くなります。

普段着と正装の違いを感じますね。

大きさ比べのついでに、
左は通常の大般若経の大きさ。右は小型の大般若理趣分ルビ付きです。

念珠の改装ということ

嫁いだ先の宗旨に合わせたり、お寺を替えることで宗旨替えが起きることもあります。

そんな時、新たな宗旨にあった念珠を買い換えるということが発生しますが、愛着のあった今までの念珠を改装するという選択肢もあります。

写真のは、日蓮宗から浄土宗に宗旨替えということで仮組みまでです。

みかん玉の日蓮宗念珠なので定形の浄土宗にすると輪が小さくなりすぎてしまうので、ちょっと・・・ほんのちょっと知恵を使いました。(^O^)

不定形ですが二連できそうです。


一番左の上下二連が浄土宗に改装後の姿。
これから下がりを作ります。

生死一如

昨日の日記の中でご紹介した知人からの年賀状にはもう一つ書き添えられている言葉がありました。

それが「生死一如」という言葉でした。

仏教では、「生」と「死」を別のものとして分けてとらえることはしません。

二つをひっくるめて「生死」といい、「生」と「死」を超えることを説いています。

つまり、生があるから死がある。
生の中に死があり、死の中に生があるのです。

人間は、死にたくなくても、いつかは死を迎えなければなりません。

だからこそ、命ある限り精一杯生き、そして死を迎えるのです。

だから、きっとこの言葉にある精一杯生きていきますと心底の決意の言葉なのだろうし、TONさんもそうしてね。という事なのだろうと思いました。

ありがたくお気持ちをいただいて、自分もできる限りの生き方をしようと思った次第です。

今日そのことを思い出したら関連して思い出したのが骸骨彫りの念珠でした。
そうだな。なぜ骸骨なんてグロテスクな彫り物の念珠があるのと思う方は多いのですが、いつか人間は誰しもがシャレコウベを晒す存在なんだと忘れてはいけない。

まさしく骸骨彫り=生死一如なのだということをビジュアルで現していると考えるわけです。

琥珀仕立て変わりもの・・・

おもしろい玉でしょ。

オリーブのみを切断したものです。トラ琥珀の道具で合わせましたが、琥珀は組むときに注意が必要なんです。

何度ボサ玉を割ってしまった事でしょうか・・・くぅ~~~

さあこれから編みます。

ブータン製生地のマルチ袋

ぶーちゃんの・・・もとい、幸福度を国の指標にする国ブータンで織られた生地で製作しました。

何とも言えないブータンらしい色使いです。

なんでこんなエキセントリックな組み合わせができるのだろう。。。

いくら見ていても飽きが来ません。

避けられない季節

製作の時に静電気を気にしだすといよいよ冬本番です。

スチームをたいた部屋で湿度をあげれればこんな苦労はせぬものを・・・

濡れタオルに静電気を逃がしながら制作していきます。

濡れてるものを触りっぱなしなので、乾けば手の潤いを奪われる。
と、いうことで、都会にいながらアカギレがついてまわるということになるのです。

今でも・・・

この図柄をぱっと見て、「100円玉だ」と思う人は、同世代。

昭和42年に今のデザインに刷新されるまで文字通り銀貨として巷に流通していた。

TONの好きなのはこのひとつ前の図柄が好きなのだが、甥の手元に行ってしまっている。

昭和39年がオリンピック記念貨に食われて発行枚数が少なかったこともあって希少価値がある。
ときどきこういうのを使用されるお客様がおられるので、もと古銭マニア小僧だった血が騒ぐ。

わざわざ両替に電車に乗って両替機のある繁華街まで出かけて10円玉、100円玉を袋にいっぱい入れてワクワク帰宅したものだった。近くの銀行で両替すればすむものを、そこまでの頭がなかったところが、小学生らしいと思って欲しい。

32年の100円も35年の50円も山と(そりゃオーバーだ)あったんだけどなぁ。。。