もう一歩

もう一歩踏み込んでもらえないものだろうか・・・・

仏具の修理に職人に出した。
戻ってきて、ワクワクしながら荷造りを解いた。

2か月近くかかって手直ししてもらった塗り物。

さぞかし美しく蘇ってくれたものと信じて覆っていた薄紙をはがしてみる。

きれいにつやが戻ってした。
一安心。

ふと金箔部分に目が行ってしまった。

はくの上に指紋の跡。
(そうなんです。箔の上を触ると長い年月の中で指紋が浮き出てくるのです)

よく見ると・・・・
金箔部分は職人に出した時と何も変化が見られない。

全く慌ててしまった。

どうなのこれ・・・・・

即、職人に電話。

「箔?いじってませんよ」

あまりに悪びれず答えてくるから、返す言葉を失った。

だってね。光る部分は自然に目が行くものなんです。

昔、カーウォッシュのアルバイトをしていたころ、「バンパーやエンブレムのメッキ部分(ずいぶん古いですね)は、特にぴっかぴかに磨くんだよ。そこが綺麗だと全部きれいに見えるものなんだ」と先輩から教えてもらったものです。
動線をトレースするということがその道にはあるはず。

期待して預けた人のことを考えたら、どんなに漆黒の漆は綺麗でも、金箔が手垢まみれになっていたら、半減どころのものではないでしょう・・・・

お客様の視点にちょっと立ってみれば、仮に指定されていない部分でも、「お客様、ここをこうしたほうがもっときれいになりますよ」ってアドバイスしたくならないかなぁ。
ちょっとがっかりした。

暇さえあれば念珠の玉を磨いたり(お直しの)、多少金額が高くなることがあっても、お客様の立場に立って考えてみれば、喜んでいただけるだろうと思えば、より以上の出来上がりを予測できればお伺いだけは立てる。

でも・・・

自分でも同じような失敗をしているかも。

いい勉強をさせてもらった。
今一度お客様の動線を頭と心に感じてみなくちゃぁ・・・・

気づく

念珠を直していると、後ろから・・・

「もしもし・・・・」

「作業中申し訳ありません」と声をかけられた。

念珠の玉数についての質問だった。

通り一遍の答えだったけれど答えさせていただいた。

「被災した人たちに頼まれて・・・・」

という会話にはっとして聞き返した。

「どちらですか?」

「大船渡から」

そこから話の糸口が広がり、商店会の寄せ書きを大船渡の小学校に送らせていただきましたとなっていった。

「被災からすでに三ヶ月を過ぎ、表面は生活がなんとかできる状態になりはしたが、何か足りないというのです」

何か足りない。

落ち着かない・・・・

そう・・・・

多くの家族が仏壇もお位牌も全て流されてしまった。
あるべきものがないのだ。

ふと気が付いた。という。

「せめて念珠を身につけたいと思うようになったの」

そうおっしゃった。

心のよりどころ。

震災直後から自分は何ができるのだろう・・・
ずっと知恵を絞ってきた。

手に入るだけのローソクを被災地に陸送しようかとしたが、ローソクは危ないからとマスコミの言葉に、気持ちを押しとどめた。

こういうとき自分の仕事の中には何もできない。だから、仲間を募って物資を集めて急きょ送ったりと僅かな仕事をさせてもらった。

被災したばかりは衣食住の条件をそろえることが急務だったが・・・・

心の問題がどんどん顕現してき始めているんだ。

目に見える問題もいっこうに終息しているわけではないけれど、
人として人間らしさの根本をなす先祖供養や祈るというベースは、僕らの業界の責任として真剣に考えないと・・・・

本当に考えさせられた。

電話

電話が鳴った。

一日に何度鳴るかわからない繰り返しの出来事なのに、その電話はいつもと違って聞こえた。

出ると二十年来お付き合いしてくださっている埼玉のTさんだった。

以前駒込に自宅があったときには、上さん連れでコーヒーを飲ませてもらいに伺ったり、夕食に招待されたりと・・・これがまた凝った味で美味しいのだ。

ともに寺周りの企画で宿をともにしたり、観劇にお誘いしたり家族同様の間柄と僕は一人がってに思っている大事な大事なお客様の一人なのだった。

Tさんには姉さんがいた。
Tさんによく似ていて、竹を割ったような気持ちのいい人だった。たしか一回り上だった。自分のお袋と変わらぬ年齢ながら、僕は「お姉さんお姉さん」とお呼びしていた。

としはも行かない弟を抱え、両親に先立たれ、生涯を独り身で通された「お姉さん」には、自然と尊敬の念を込める形で、この呼称となったのだった。

昭和の激動期を越えて弟を独り立ちさせるためにと、文字通りその身を粉にして齢を重ねてこられた。

だから、観音様の大好きなその方が大好きでもあった。

10年も昔になるが、「お姉さんの若い時のお写真を見たいですね」とお茶のみ話の中で漏らしたことがあった。

記憶力のよいお姉さんは、次の観音様の縁日に立ち寄ってくださり、そっとセピア色の写真を見せてくださった。
そこには丸髷に和装の姿の淑女が写っていた。

ずっと手を赤切れさせながら、がんばってこられた姿もダブって想像された。
不覚にも胸が詰まって涙が落ちた。

「店長」
電話のTさんの声は明るかった。

(よかったお姉さんのことじゃないな)
このところお姉さんの体の中止は悪く、大好きな観音様にも足を運べない日々がすこぶる多かったのだ。
電話口の一声で何故かそこに結び付けている自分があった。

でもTさんの言葉の表情と内容とは一致していなかった。
「姉貴いけなかったよ・・・」

(やっぱり・・・)

言葉を失った。
気づかれたくなくて、喉に流したな・・・

不思議なご縁・・・・
いつもながら思う。

鬼籍に入られた事実は事実として頑としてあるのだけれど、なんだかまた逢いそうな気がしているのだから。

振込め詐欺に気をつけましょう

震災や原発問題で、話題にならないのだけれど、振り込め詐欺が相変わらず大手を振って闊歩しているようなのです。

震災の被害に便乗した許せない新たな手口を考えだす愚か者もいるけれど、警官を名乗っての手口など、警察の信頼をも失いかねないもってのほかの行為。

警察側も相当力を入れている。

その一環で、うちの商店会がお手伝いとなったしだい。

地元警察署とはいつも密に密に情報交換や勉強会を重ねているため、名のだろうと思う、けれど、ぱっと言えばパッと行動するというフットワークのよさが、どうやら防犯意識の高さと認めてくれているのかなぁ。

で、今日は振り込め詐欺撲滅キャンペーンとして、浅草寺に集合となりました。

特別あつらえしたラッピングバスが待っていました。

そしてゲストは、笑点でお馴染みの歌丸師匠と木久翁師匠

お二方に主導をとってもらいながらの啓蒙活動ということでした。


こんな図はなかなか見られないでしょ。浅草寺+ラッピングバス+師匠方


ラッピングバスに乗っていざ雷門前へ。


笑点の人気の高さがそのまま人混みを作る。

木久翁師匠はもし振り込め詐欺の電話があったら「私は宇宙人、あなたは誰ですか???」とやるのにと笑いをとっていた。

本当にそう受け答えしたら、どんな反応になるのだろうかと本気に想像してしまいました。

さすが語りのご商売とはいえ、
笑いの中にも「振り込め詐欺のだまし許すまじ」の精神は十分伝わりました。

チラシを配るのを忘れて見入るメンバー・・・

と言うのではないですって・・・

警察もいろいろと考えてくれていますね。

朝から雨。雨。雨。

TONちゃんころすにゃ刃物はいらぬ。雨の3日も降ればよい。です。

おまけに寒いし・・・

昔はこんな日を狙って、仲の良いお客様が来店してくださったものなんだけど・・・
僕といっしょに加齢していくぶん雨の日はしかも寒ければなおのことお家にいたくなるのが人情というものでしょうか・・・

で・・・

一日目。

しばらく天候不順が続くとか・・・

ぱた。

空白をうめるもの

「主人は浅草生まれだったのよ」

「浅草のどちらですか」とTON。

「千束でね、でも親も兄弟も主人を残してみんな死んじゃったの。空襲でね」

3人連れの陽気なお客様との話題の中に出たことば。
今年は、東京大空襲の碑にお参り行かなかったなぁ。ふと思い出した。

毎年、梅が咲く頃になると、いつもそわそわし始めるのに。

東京には、僕の住む浅草周辺には、戦跡が限りなく存在している。
浅草寺の境内には空襲で萌え残った銀杏の木々がそこここに存在を誇示しているし、平和祈念のための碑や像は数限りない。

お付き合いのある寺院の境内にも観音菩薩や地蔵菩薩の説明板には、3月10日空襲の犠牲者の骸をここに祀ったとあって思わず手を合わせる。

毎朝走る川沿いにも、空襲で亡くなった子供たちを供養する地蔵たちが並び、何千と仮埋設された墨田公園には、哀悼の碑が建つ。墨田公園ばかりではなく、下町の公園地には、所構わず、空襲の犠牲者を仮埋葬がされていた。占領軍GHQの指令で掘り出すのは数年先だっったということもあって、仮埋葬の所わからずとなっているご遺体もあるようで、数十年後、地下工事の時、人骨が掘り出されたなどということもあったと聞くと、僕らの住むこの場所は、おいそれと足を踏めない場所であると思わされるのだ。

昭和史に関心があるのは、こういう場所に住むことも手伝っているのかも知れない。

昭和史と言えば、僕らの世代は中学も高校も駆け足になってしまっていた。
最近は全く教えられないなど子供の口から聞くが、本人が怠けているだけではなさそうだ。

近代史、特に昭和史は飛ぶように過ぎ、心の残っているのは、2.26や真珠湾攻撃、原爆投下の写真と終戦記念日、皇居前で人々がひざまずく写真が残る程度というお粗末なもので、明治維新から一挙に戦後に行ってしまうのだからその空白を埋める作業はたいへんなものだ。

今年は、そういう思いを深める時間も与えられぬまま、大震災の災禍を被って、頭の中が真っ白になっていた。

お客様との会話の中で、二ヶ月間の空白を少しだが埋めてくれた気がした。

ようやか

一時は、まったく途絶えた外人さんの姿が見られるようになった。

2ヵ月にしてようやくと言う感じだ。

なんだこりゃ

店の子がお店に入って来られたお客様の体に羽蟻が数匹ついているのに気づき、
「なんか付いてますよ」ととって差し上げて、ふと外に眼を向ける。

やたらと表をぶんぶん飛んでいる・・・

それを見て驚き「店長!!大変大変!」
と叫び呼ぶ。

こういうときは僕の仕事となるのです。

隣のビルとの間を覗くと・・・

黒いじゅうたん・・・

おっと・・・

ちょっと・・・

気持ちのいいものじゃない・・・

ホースで水を撒いて綺麗に流しちゃったけど、
急に陽気がよくなって慌てて種族繁殖作用に沸いたんだね。
コンクリートジャングルの中にもかかわらず自然の力はたくましいものだ・・・

人にも本来、奥底に併せ持っているはずだよな・・・と思った。

心熱くする

ぼくの店が位置する小さな通りの小さな商店会でたった一日のがんばりだったけど
道行く人、近くの小学校の子供たち、プロの歌手、そして商店会の仲間たちによる寄せ書きが大船渡小学校に届いた。

そんなに集まらないだろうと思っていたのに蓋を開けたら780名もの人々の善意の言葉が寄せられた。

子供たちが元気をいただいていると聞かされると、努力したかいがあったと素直な気持ちでありがたい。

日本人の特徴は人の噂も何とやらで、良くも悪くも忘れやすいしマスコミなどの論調によって変わりやすい。

被災地の復興は、1年や2年で終るわけもなく、これからも息の長い支援ができたらと思う。

涙を呑む

久しぶりに浅草は賑わった。
ゴールデンウィークは近場の観光地でとかマスコミでも情報を流していたし、
こんな形でどっと出たわけではないのだろうけれど、やはり人がぶつかるほどの活気さが、やはり浅草らしい。

御陰様で店もそれなりに混みだした。

そんな中ある親子さんがご来店くださった。
「チョット待ってね、まだあるから」
仏具を一つ一つ時間をかけて丁寧に選ばれていた。
ご供養するために必要な一通りの買ってくださった。

接客しながらふとお客様の口から、

「津波にあったその日が命日と思って、供養してあげたい・・・から」

ん?と思った。

品物をお渡しするとき、

「どちらからですか?」の問うてみた。

「岩手」と一言。

さらに問うと、

「大槌町」と言葉少なに応えて下さった。

きっと口には出されたくなかったのかもしれない。
僕も僕で次の言葉が出なかった。

自分も岩手のお客様の現状がまったくつかめないこと、
宮城の親戚をなくしていること、

など我知らず口にしていた。

被災時には他所にあって難を免れたお母さんと現地にいた娘。

家族の大事に一緒にいられなかったと心を痛める母の弁。

「母がいてくれたから生きていける」と子の心。

最大級の難が現実として究極な状態に落とし込めたのだ。

我知らず涙を呑んでいた。

あまりに心の傷が深いだろうことを察すると、どんな応答も空々しい言葉になってしまう。
ともに涙を呑むこといかできない自分があった。

外の喧騒とは裏腹に被災地はやっとスタートラインにつけるところにたどり着けたのだろうか・・・・