看取る

念珠のお直しを承った。
先代から伝わった念珠と言うことで、そうと年季が入っていた。
むくろじゅの素朴なスタイルだった。

これは何ですか?と尋ねられるので、お釈迦様と円の深い実ですとお答えした。
マガダ国が他国から攻められたとき、国民が一心にむくろじゅで作った念珠で念じなさいと言われた逸話のことであった。

しっかりメモをとられ、大事なものだったのかと再認識してくださったようだった。

「制作期間はどれくらいかかりますか?」
と再度聞かれるので、
2週間くらいと応えたけったけれどちょっと混んでいるからなあと心に湧いてきて即答しかねたとき、「何かご使用になることがおありですか?」と尋ね返してみた。

「はい。妻が一週間後に他界するもので・・・」
末期がんだった。
以前、がん患者の集いに毎週通っていた頃のことが頭に浮んだ。
痛みに対して、モルヒネを打てばよいのだけれど、当時はなかなか打ってはくれなかった。もちろん患者の体を考慮しての病院側の判断だったのだろうけれど、患者も看取る家族もせめて痛みだけは・・・終末医療の現場のものすごさを聞かされていたことを、ふと口にした。
「今は痛みだけはとってくれるみたいだけど、ご家族の気持ちは複雑ですね。」

一瞬、お客様の顔がパーッと明るくなるのがわかった。

きっと今まで深刻さに蓋をしてこられたのだろう・・・
危うく目から汗をこぼす所だった。
かろうじて鼻からのどに送り込んだ。

自分ならどうだろう・・・
いつか看取る側になるか、看取られる側になるかわからないけれど。

二十年の重み

この像の下にはめ込まれている台車

二十年経つと硬質ゴムのタイヤもこうなるんだ・・・

どうりで・・・

瓜生岩子


お客様からいただいた。
「瓜生岩子を讃える会」という会があるのだそうだ。

浅草寺境内にはさまざまな神様、碑、塚が存在する。

一つ一つ時間の許す限り記録して回っているのだが
団十郎の暫の像の近くに、背を丸めた品のあるおばあちゃんの像がひっそりと建立されている。

誰の像だろうと長らく不思議がっていたのだが、銘板を読んでみると、福祉という概念も混沌としていた時代に、戊辰戦争において敵味方の区別なく傷病者の看護に当たり、明治の初頭日本の社会福祉の基を築いた方だった。

野口英代の母親シカをサポートしたのも瓜生岩子であったことは意外と知られていない。

日本のナイチンゲールとも呼ばれた。

http://www.city.kitakata.fukushima.jp/2064/6566/7202/007208.html

福祉やNPOの概念が発達した現在では考えられない時代に先駆的歩みをされた彼女の苦労は並大抵の苦労ではなかっただろう。

蟻の町の聖女といい
浅草はなんとも不思議な縁の町だろう・・・

過ぎたるは・・・


麝香(じゃこう)鹿の香袋なのだ。
つまり陰嚢のこと。

今はワシントン条約で禁止になって久しい状態でなかなか現物を手にすることが難しくなった。
これは香材料の見本として数十年前に手に入れたもの。

鹿さんの毛並みが見えてちょっと引くかもしれないけれど、大事な大事な香の材料となる。

麝香・・・ようするにムスクだもの。

そして、あるときにTON店長が香を作る機会を得ました。
そこでは貴重なムスクをふんだんに使えると言うことを聞いてピンときた。
ムスクはクレオパトラの愛した香り。

「ようし。ほとんどムスクの香って言うのはどうじゃらほい」

欲張って作ったのでした。

それがこれ。
作った当時からほとんど減らない個数。

たまーに、本当にたまーに今でも焚く時があります。
とたんにTON店長の周りからは、人が逃げていきます。

そりゃそうだよね。
お汁粉に甘みを引き立てるために塩をほんの僅か使います。
塩だけで作ったお汁粉は誰も食べません。

TON店長のお香は、塩のお汁粉のようなものだったのです。

ほんの数グラム僅か使えば奥行きのある香りとなったものを・・・
ベースになったマイソールの白檀の香りも消えうせたようでした。

阿弥陀様だけ

定番の梵字彫り腕輪。
ただちょっと違うのは、
お客様の要請で、全て阿弥陀如来のつまりキリークの梵字に仕立てました。

余談ですが、
梵字が好きで長いことやっていると、
梵字のほうから

「私はバンだ」
「タラークでっせ」
「アンだがな」・・・

と応えてくれる。

気が触れたわけではない。
きっとそんなものなのだろう・・・

きっと

歴史

なんの写真か一目でわかる人がいたら、同業者かよほど毎日仏壇に向かってお勤めをして、古くなったからそろそろ買い替えないといけないかしら・・・と日々考えている方だろうと思う。

仏壇の中扉の障子部分の写真なのである。
クリーニングやお洗濯(仏壇をきれいにすること)を依頼された。
登山で例えれば1合目(にも満たないかな)は中子の修理。
なんたって昭和12年の仏壇だからと高をくくるが、
70年を越えてなお使用に充分耐えられる。

昭和12年と言えば北京郊外の盧溝橋で中国側からの一発の銃弾で、日中戦争に突入していった年。
仏壇は戦争で亡くなった息子のためにせめてもと父親が新調した。

よほど大事に使われていたことは、紗の張替えをしたときに実感した。
70年経つのに、破れの一箇所も見られない。
洗えばまた使えそうな紗。剥がしてみると70年の汚れとは思えないほどきれいな状態に驚く。

よほどよいお線香を使ってきたのだろう。
簡単に汚れは落ちる。
高級なお線香は、煙は出すが汚れは簡単に落ちる。
クリーニングをしてみれば、手に取るようにわかるのだ。

息子を思って仏壇を新調した親の心。その遺志を受け継いだ家族の心。
そんな思いが、ぐっと胸に押し寄せる。

難波淳朗氏の墨絵

いつも座って作業をしている正面の壁から仏画が一枚お出かけした。

故難波淳朗氏の手による弥勒菩薩の像である。

写経で長年お世話になっている佛心寺の永井住職による三人展の客分として出かけることになった。

http://norikyu.com/bussinji/

「三人展」
日時:平成21年6月14日(日)  開場:12時~17時
会場:井之頭画廊 (入場無料・竹工芸及び墨跡は展示即売有り)
仏画-難波淳郎 竹工芸-田中昌斎 墨跡-永井一灯

難波氏はすでに故人となられてしまっているから、この展覧会が最期となるかもしれないと永井師はおっしゃっておられた。

逝かれるのがあまりにも早かった。
これからと言う時に難波氏の訃報を耳にした十数年前、「膝が落ちる」と言う表現が本当にあることを体で知った。

二年間のお付き合いだった。
店のカレンダーを製作するために氏の墨絵を頂戴した。
立て替える前のアトリエにも何度か訪ねた。
命を削り筆を走らすということもアトリエにて知ることができた。

もともと油彩を本業として抽象画を描いていた氏の生き様を知って感動した。
「ペトロ難波淳朗」たしかクリスチャンだった彼の仏教への心は
雷門の店をオープンした時も片肺のない体を押しながら、
テープカットと祝辞をいただいた。
そう・・・

その時は「難波淳朗個展」を企画したんだった。
仏壇のぶの字もない広々とした念珠堂画廊。

昨日のことのようだ。

「またいい仕事をしようね」
それが氏の最期の言葉になろうとは。

三度目の企画は宙に浮いたままとなった。

だから、この永井師の企画展が見納めになるのかもしれない。

墨絵のはずされた壁はしらじらとしていてどこか寂しい。

額装もいい

先日預かった写経。
額装にということで急きょ製作させてもらった。

急ぎ仕事にもかかわらずしっかり仕立てられていた。


軸回しもいいでしょ。

いやあ・・・

北海道のSさん。ありがとうございます。

よく来店されるシンガポールのお坊さんが
目をつけて、

「ぼくこれ欲しい」って懇願されました。

お地蔵さんもぞうさんも。

お断りするのにさあ・・・困った困った。

でも本当にかわいいものね。