歴史にifはないけれど…

近所のお寺の概観

かなりモダンである。
今でこそややもすれば寺として、
ビル郡の中に見逃してしまいそうな風貌だ。

猫の額(失礼)のような寺域の中に
コンパクトにまとめられている。

しかし、
古地図を見ると、当時は、相当大きな寺領を有している場合が多い。

http://map.yahoo.co.jp/kochizu/maptop

文字通り、寺町だったのだ。

古地図と重ね合わせながら、
近所を散策していると、
思いがけず新しい発見があるものだ。

東京・・・、特にこの近辺、台東区、墨田区、江東区は、
とにかく天災、人災による文化財への影響は甚大だった。

浅草寺にあっては、推古天皇の時代からの寺である。
平安京よりはるかに古いことになる。
その歴史を考えるだけでも、見方が変わる。

京都の町並みを以上の風情が残っていただろう…
「京都行こう」ではなく、
  「東京行こう」だったかもしれない。

もし、震災や空襲などなかったとしたら、
どれほど、この町の風景は違っていたのだろうか・・・

と、想像され、天災や先の大戦で失ったものの大きさを
改めて気づかされる。

春の足音

暖かい暖かいと言われていても
実際に花の顔を見ないと
春は、実感として感じない。

向島

店の女の子に、
「今日は何の日だ」と朝一番に聞かれた。

「何だっけ?」いつものすっとボケでフェントかけようと想う隙も与えず、「女の子のお祭り」
要するに、「桜もち食べようよ」
と言いたいのだ。

長命寺の桜もちを買いに行くとする。
墨田公園を通り、言問橋を過ぎ

さらに上流の桜橋を渡る。

平山郁夫のモニュメントができていた。

橋を渡るとそこは向島。
七福神の一つ黄檗宗の弘福寺

まだまだ料亭の町


(向島見番から言問橋方面を望む)

桜もちの名前にも冠されている長命字本体はこちら。
天台宗の寺院で、もとは、浅草寺とは本末の関係にあった。

    

その裏手にある
目的のもち屋に着いた。

何しろ、むきになって走ってきたからね。
少々疲れた。ヘーヘー

 
おー横浜や埼玉のナンバーもあるよ。

急いで買って帰ろう・・・
と思いきや・・・
「本日は、予約販売のみとさせていただいています」

だって。
 ・
 ・
 ・
 ・
まあ、地元の強みだね。
生麩饅頭をめげずに買って帰る。

ひなまつり

我が家で待つ、紅一点のために

浅草には珍しく、パテシエが近所で創作ケーキを作っている。
ケーキより、門前町らしい、
店頭のディスプレーに魅入っていたのだが、

徐々に、こんなディスプレーを施す店の
ひな祭りケーキとはいかなるものか、
興味が湧いてきた。

店内は、広々としており、
白を基調にした棚に個性的な洋菓子が並んでいた。

ついふらふら…
あれと、これと、

誘われるままに買ってしまった。
(誰も誘っちゃいないって?
まあ我がうちなる声とでもいうことでしょうか…)

これは、上さん用だ。


(他に限定モンブランもあり)

家で待つ紅一点の上さんのために
・・・という名目で・・・

春だよ

墨田公園の桜も

隅田川の都鳥たちも

川面の屋形船も

お店の猫も

春めいてきたね…

銀杏にまつわる話

20年ほど前に浅草寺で仏壇供養をしていただいた。

環境保護を叫ぶ今では、想像もできないが、
古い仏壇を野焼きするのである。

仏壇を30基近く供養して…つまり燃やした。

まだ、お寺とのお付き合いの仕方もよくわからなかった頃。
未知の世界がただ楽しくて、
胸をどきどきしながらも許可をいただきに寺に伺った。

浅草寺境内の仕事となると、
仕切り役がいることを始めて知った。
根回しがあれこれと必要であることも知った。

江戸から明治の大親分、新門の辰五郎の筋に当たる
株式会社新門の門を叩くことになった。

鳶の看板を持つ方と始めての付き合いに
かなり緊張しながら言葉を選んだ記憶がある。

けれど、縁のないどころか、
むしろぼくの先祖にとって、浅からぬ関係のあることは、
胸にしまっておくことにした。

見るからにスカットした若衆が、
当日の責任を持ってくれる算段で
仏壇供養を行なう手配となった。

溜め込んだ仏壇は、当日持ち込まれたものも含めると
予想をかなり上回った。目通しではきかなくなった。

浅草寺の導師、式衆の読経の中、
仏壇に火がかけられると、

はじめ、ちょろちょろとしか燃えず、心配したが
あっという間に、人の3~4倍の高さの炎が渦を巻いて立ち上がった。
あまりの勢いに、皆が慌てたのは言うまでもなかった。

すべての仏壇が灰に戻ったとき、
会場を取り囲んでいた銀杏の葉が、
全て黄色く色づいていた…焼けたのだ。

今でもその光景は、目に焼きついて離れない。
それらが、戦火を潜り抜けてきた、有志たちであったことは
後で知った。


物言わぬ伝言者。銀杏。

テプコ浅草館

仕事で合羽橋道具街に足を伸ばす。
といっても、自転車で行けば至近距離。

帰り道、かわいい河童のどうぞに声かけられて

「じゃあ」とばかりに冷やかしてみる。
浅草文庫を持つスポットなのだ。
場所が、ちょっと離れている為に、人目につきにくいのだが
浅草の歴史資料的には、とても参考になる蔵書を所有している。

一階では
ちょうど都電の写真展示をしていた。


昭和42年当時の映画ニュースを流していた。

しばらく立ち見をしていると、
「でかい図体でのろのろ走る」
「前近代的のりもの」
「赤字解消の為には早急に廃止」
「終わるときだけ、人気者」

アナウンサーの言葉に、実に、
情緒的にも実務的にも、作為的な誘導を感じた。

「同じ論法でいったら、バスも地下鉄も公共交通は全て廃止になるわ。
こういうのを、作為的ミスリードと言うんだなあ」
などと、思いながら、二階への階段に向かう。

30年代を知る人には懐かしい光景だ。
ミニアミューズメントにちょっと古い浅草を思い起した。

3月が近づくといつも思うこと

浅草近辺を歩くと戦争の傷跡がここそこに
案外と残っている。
観光地であるだけに、表立っては目立ちはしない。

いい例が、浅草寺境内の銀杏の木だ。

空襲時に焼け落ちた幹から、
いつのまにか新芽を出して今に至る。

近寄って目を凝らしてみて欲しい。
戦争の傷跡が、多く残る。

墨田川に出る。

今は、ウォーターフロントの玄関口
花見となれば屋形船が、川面を赤く染めるその場所は、

空襲当時、川面全体に、
逃げ切れず飛び込み力尽きたのであろう
多くの遺体が打ち寄せられていたという。

幼い命も母に抱きかかえられたまま、
あるいは、
恋しい母の手を離れたのであろう
いたいけな亡骸も、
数多く引き揚げられたと聞く。

そうした光景を知る近隣の有志によって、
建立された供養碑は、
吾妻橋のふもとにて、
今でも、花が切れることもなく祀られている。

浅草から、アサヒビールのモニュメントに
顔を向けるときは、

雲子ビルの滑稽さを思うと同時に、

その足元にある
殉難者の碑に、いつも思いをはせるのだ。

春の陽気に

自転車で春散歩
な~~んだ。

そ。

うんこの尻尾でした。

BGMの機材が壊れてしまい、急遽、
川向こうにあるオンキョーのサービスステーションに
持ち込みました。

東京は、こういうとき、便利だなあ。
何でも、至近距離にあるんだものね。

あまり川向こうには来ないので、

ついでに、ぐるりとポタリングです。

吾妻橋と川向こうに浅草を遠謀です。


勝海舟の銅像も発見。

ここにあるの知らなかったですね。

墨田区役所のすぐ裏手です。

芽吹いているの見えるかなあ。

春があちこちに転がっている感じです。