商店街の船出

ついに店舗前の路地が商店会の仲間入りを果した。
9月5日にめでたく船出することができた。
まさしく出来たてホヤホヤだ。
10数軒の小さな商店街ではあるけれど、夢は大きい。
初代商店会長に任命された。
さてさて、どこまでその夢に近づけるかワクワクものなのだが、
とにかく瞬間で浅草を感じれる通りを創らないとね。

会を立ち上げていく中で、不思議な縁を知るにおよんだ。
自分の先祖がここ浅草に120年以上前に一宿一飯の恩義で
浅草花川戸に住まっていたことは、周知していたのだが、
わが店のあるちょうどこの場所に、
三社権現の一之宮にあたる土師中知(はじのなかとも)の住居がこの一帯にあったことを知った。

観音像を宮古川から拾い上げた直後の庵ではないとは思われるが、
阿弥陀の化身とされる中知の住居には阿弥陀如来が奉安され
多くの参拝者が訪れたという。

その跡地に仏具を扱う店をオープンさせてもらったのだから・・・
不思議な縁だなあと思いながらも、さらに調べてみたい衝動にかられている。
ちなみに、商店街の名は一之宮にちなんでつけることにした。

つい川端

歩けば2~3分で隅田川に出る。
そんな近くに住んでいるのに、意識をしないとどれほど見ないだろう。

たまたま駒形堂の近くに出たついでに橋のたもとから雲子ビルを臨む。
空の高さはもう秋そのもの。

足元の花はまだまだ夏を盛りとしている。
不思議な調和だ。

朝の光景

みんなが何故同じ方向を見ているかというと、
目線の先にからくり時計が時にあわせて人形を動かすのです。

保育園の子供たちもでんと座って、時間を待つ光景はかわいいものです。

出社時に時々見る光景に思わず頬が緩みます。

夏も終わる

アブラ蝉のジージーの鳴き声の中に隠れるかのようなか細い声だが
つくつくぼうしの声が混じる。

ああ・・・
もう夏の終わりを知らせているんだな。

いよいよこの季節

ダンダダンダダン・ダンダダンダダン・・・♪
と狂乱に満ちた熱気に包まれる一日が過ぎると、浅草はもう秋。
浅草サンバカーニバル

故伴淳三郎のアイデアで始まった浅草サンバももう28歳。
初めはいつまで続くやらと思っていたけれど、
なんのなんの、今年はますます盛んになった。

ブラジル移民100周年を向かえ
さらに盛り上がるだろう。

以前コーヒーの勉強をした際に
何気なく飲んでいるコーヒー豆ひとつに、
いかに移民した日本人の苦労の土台があって今があるかを知った。
リオのカーニバルにも「MATSURI」として故郷への思いを残してもいるという。

サンバを見る目が多少変化した。

変化

浅草がなんだか騒がしい。

ほおずき市や花火大会などの年中行事で賑わうのも去ることながら
町の整備に余念がない感じであっちもこっちも道路を掘り返している。
大川(隅田川)端が変わるだろう・・・

600m超の世界一の高さとなるスカイツリーが川向こうの業平-押上に数年後には完成する。
ネーミング決定からは、目に見える形でより具体性を帯びてきた。

建設箇所が墨田区だからといって対岸の火ではない。

大手のデベロッパーはこの機を逃すはずはないだろうから
町の様子は、六本木がそうであったように、汐留がそうであったように、
恐ろしく変化するであろうことは容易に察する。

100年の計を考えて、防災都市を考えてもらいたいものだ。

お盆

昨日はお盆の入り。

と聞いてもピンと来ない諸氏も多いのではと思う。
社会生活上、7月盆はなんら生活に変化があるわけではないし(棚経のお坊さんは別として)、影響が見えにくいといえる。
実際は、盆踊りもあるし、花火大会もあるし、一連して精霊を慰める為のお盆行事のはずなのだけれど、「玉屋~~」といいながら、「○○さん浮ばれてね」と祈る姿はみないし、「踊り踊るなあ~ら♪」と踊りながら、「お墓のご先祖様また来年ね」とこれまた祈る姿は皆無だろう。

実際ぼくも仏壇屋の仕事を生業としているから頭にあるようなもので、
正直な所は月遅れの8月盆に軍配を上げたくなる。

せみ時雨と西瓜と蚊取り線香の匂い。
あきれるほど照りつける夏の太陽と青空。

今の若い人たちにどこまでそのイメージが通るかわからない。

故郷に向かって民族大移動が始まる時期。
都会が故郷のものには、カラッとした青空が帰ってくる日。

そんな姿が、お盆の姿かな。

店にいるとよく聞かれる。

お盆はいつ迎え日と送り火をするの?
何でお盆には7月と8月があるの?
という質問だ。

前者は簡単、13日の夕に早くにお迎えして、
16日の夕にもう帰っちゃうの?と別れを惜しみながら送る。

亡き人がありありと生活の中にいる。
考えると霊がいるいないとしちめんどくさい事をいう人でも、
現に霊を迎える行事なのだから何とも不思議な気もする。

後者は、ちとめんどくさい。

調べてみると、明治5年11月9日「改暦断行」という手法が明治新政府によって執行された。
これがそもそも混乱の元のようだ。
改暦ということは、関係のない日にちが突如として元旦に替わるということだ。
制度を変える時には、数年の準備期間を設けて、これでもかというほど注意深く変更するものだ。ましてや生活の根幹に関わる暦の問題である。
どんなに準備したとしても混乱しないはずがない。

改暦断行の年は明治5年12月3日を明治6年元旦とした。
しかも発表からたった一ヶ月弱での施行。

これはいかに無謀だったか
出す側の新政府側にも、受ける国民の側にも混乱を招いたか想像に難くない。

農耕民族には農閑期を迎える旧暦のお盆が丁度良い期間である。
まだ、梅雨も明けず農家には繁忙期の時期に悠長なことはしていられるはずもない。
急な決定であり、暴動すら起きたという。

急いだ理由に明治6年が閏年で一年が13ヶ月のある年ゆえ、
財政難の明治新政府としては一ヶ月給与を払わなくて済むことは万々歳だったのだろう。

とにもかくにも、明治新政府のお膝元東京市は、そのあおりで新暦のお盆に移行せざるを得なかったということなのだ。

それが今も習慣化し混乱の元をひきずっている。

農耕民族の血は今でも8月盆を求めているのかな・・・