哀悼の気持ち

山岡荘八の小説太平洋戦争を読み始めて、もう少しで半分。

分厚くズッシリ重い愛蔵本から、手のひらサイズの文庫本を手に入れることができて実に肩と腕に優しい。

でも時間がないから、昼食の時間とトイレタイムに集中する。
トイレタイムは避難の嵐となるからそこそこにしたいけれどつい・・・ね。

現在戦場はニューギニア戦線に突入したから、終わればビルマ戦線に移る。
緒戦の勝ち戦さは終了し、ミッドウェー海戦以降、何万と言う将兵が玉砕していく場面の連続だから、正直な所は、本を放り投げたくなるくだりばかりで、日本人として実に読むに堪えられなくなる。

でも、なんとかやめないでいる。

細切れの日中戦争ー大東亜戦争ー太平洋戦争での局所の戦闘が・・・日本の動き方が、ようやく繋がってきた感じがする。マレーの虎だの加藤隼戦闘隊だの勇猛果敢な日本兵の強靭さがどこで敗戦への分水嶺を迎えたのか、何よりも戦争の原因をしっかり読み解いておかないとと言う思いがこうさせる。海軍と陸軍の戦いの混同など自分の浅学さに道筋を立ててくれている感じがようやくしてきた。

何よりも未だ祖国に帰らぬままの英霊たちの、祖国や家族を思い散華した気持ちにちょっとでもリーチできたらと思うからなのだが・・・・。

沈香という木

なんの変哲もない木くず。

興味のない人が見たら、フッと一息に吹き飛ばしてしまいそうな木片。

けれど、香に関心のある方には、これが沈香ですとお話しすれば、ちょっとは耳を傾けてくださることでしょう。

しかも、これが人工的に種をまいて栽培し腐食させて育てた栽培物ですと答えたら、さぞ驚くことでしょう・・・・

こんなに高騰し続ける香木の世界。
純粋に香の好きな人間には実に辟易させられる問題です。

投機の対象として伽羅や沈香が取引されるか・・・・
成分分析がはっきりわかり栽培方法が確立したらどれだけよいか・・・・天然モノか養殖モノ化を選ぶのは買う側の自由に任せればよい。そんな時が近づいたのかなとちょっと嬉しくなります。

ここ最近大切な方を見送ることが多い。
上さんにも守ってくれる人がどんどんいなくなって寂しい。なんてもらしていたせいか・・・

夢を見た。

そこは、大変お世話になった、またなっているお坊さんの息子の身内だけの結婚式。
自坊。信者さんも数人控えていた。

ぼくが参加するいわれはないのだが、なぜかそこに座していた。
巷の結婚式とはずいぶん異なって、宗教らしさをふんだんに香らせる、荘厳な中、もう鬼籍に入られた安寿さんが式の意味あいを僕に語ってくれた。

何故か、重要な気がして書きとめようとした。

でもペンがない。
書き留めなきゃ・・・

記憶するしかない。

よし。ここは目を覚まそう。
目を覚ました。
でも思い出せない。二行だけ書いて後がつづかない。

と思っているうちにこれも夢だったことに気が付きながら目が覚めた。
時々やるのだ、二重睡眠・・・

もう一度紙に書き留めた。今度は現実の世界だった。

「円の具象」(肖像だったかもしれない・・・夢の中では象像だったようにも)
「網の具象」

頭が冴えた頃、読み返してみた。
なんのこっちゃと思いつつも・・・。

「丸い心となれ、広い心となれ、そういう心を弘めよ」とでも解釈すればよいのかなと思いながらいる。

改めて見ると・・・・

4月に商店会のメンバーと道行く人にお願いし、寄せ書きを書いていただいたり義援金をお願いしたりと忙しかった。

御陰様で800名弱の方々からのまごころは、被災地の大船渡小学校にお届けすることができた。

その結果を、協力していただいた方々に報告するため、仕事の合間にこつこつ写真のパネルを作っていた。

50枚程度の写真をプリントアウトして、黄色いパネルに貼り付けていた。

こうして一枚一枚改めて眺めていると、なんとも言えない気持ちになる。

原発の地域はいまだに手付かずの状態で時計が止まっている・・・
海に持っていかれてしまった瓦礫となったさまざまな思い出は、何百キロ先までも流れているのだろう・・・
堤防や護岸の切れた地域はこの雨の中どうしているのだろう・・・

ぼくらは終ったような感触ですむけれど、被災地はこれからなんだよね。全てが。

いや「これから」とも言えない市にいるのかもしれない。

ずっと現在進行形なのだから。

終っちゃった・・・


連休の最中だと店を抜け出すことは至難の業。

でも行きたかったなぁ。

うちの店を四半世紀前にオープンした時、店は画廊として使えるように設計したのも、絵がすきだったから。

故人となってしまったが、写仏では第一人者の難波淳朗氏の個展をオープンセレモニーとさせてもらったことは、縁の不思議さを感じる。
   

さらに言えば、オープニング時に讃祷歌を主催しておられた、新宿の智韻寺住職、新堀智朝尼と詠唱団の中心メンバーに、讃祷歌を南極も唱和し清めていただいたことが昨日のように思い出される。


写仏教室は講師が鬼籍に入ることで準備段階で挫折してしまったし、讃祷歌浅草支部ですよと話すといつも喜んで下さっていた智朝尼も、早や13回忌を過ぎてしまった。

でもふと当時を思い出すと、念珠堂という店のあり様や生き方、個性を知らず内にしっかり主張していた、恵まれた出発だったなぁと、今でもしみじみ感じるのだ。

ひさしぶりに

朝、同じコースを走り回っているといい加減あきてくるものらしく、アサヒビール脇の勝海舟像を見ながら走っていると急にコースを変更したくなった。

勝海舟の銅像を過ぎると墨田区役所の裏手まで短い下り坂になる。
そして、東武のガードのある枕橋。

ここからのスカイツリーは逆さツリーで知る人ゾ知るビュースポットなのだ。

そうだ、こっちに行こう。
ひさしぶりに、東武鉄道の高架沿いに走ることにした。
江戸時代水戸藩下屋敷のあった公園を横目に、東武の高架にそってスカイツリーを目指す。

屋形船を浮かべ、水藻の揺れる北十間川が下町の素朴さと、戦後すぐ廃駅になった墨田公園駅の形跡を楽しみながら源森橋、路地を走る。そんな昭和レトロのような風景が業平橋に近づくと様相は一変する。

人の注目を集めだすと興味を失ってしまう性格が災いして、業平橋駅周辺は毎週のように通っていた一年前とは、別物のように風景が変わってしまっている。

矢板で仕切っていた暗く汚い護岸もきれいな自然石風に化粧された護岸に生まれ変わりスロープで水辺に下りることのできる親水公園化されている。
スカイツリーの足元を覆うように商業施設も工事用シートが取り払われ、着々と完成の間近を感じさえてくれる。

地震の影響からなのか、以前ほど人は出ていなかったけれど、近場の観光として息を吹き返すのも時間の問題だろう。

押上橋からの風景も一変した。

再開発のため立ち退きでガランとなった商店街の中に一軒だけ最期まで頑張っていた自転車屋の小さなビルも、ついに跡形もなくなっていた。
公番に聞くと本所のほうに引っ越したよという。
商売やめてしまったのか・・・
ミニベロ中心のマニアックな店だっただけにチョット寂しい。

アーケードが架かっていたころは歩道が狭く感じたけれど、今はその形跡さえ見当たらない青空天井。なにやらえらく広く感じる。

商店街で備え付けられていた防火用水の赤いドラム缶がぽつんとアーケード跡に忘れられている光景がいかにも寒々と感じた。

さて、
ツリー観察にそろそろ汗を流すことになりそうだ。

胸を熱くする

昨日、岩手県の大船渡小学校の校長先生からお電話をいただいた。

先月3日に、商店会員全員(ほぼ)で街頭で声をはって道行く人にお願いし、
同じく田原小学校の子供たちに協力してもらって完成させた寄せ書きそして募金を大船渡出身の知人のつてで、大船渡小学校に持って行っていただいた、そのお礼の電話だった。

正直なところは軽い気持ちの寄せ書きで被災地の人に励ましのメッセージが伝えられたらな・・・くらいの気持ちしかなかったのだが、商店会員の皆と話し合い、スケジュールを組んで今までにない参加率でのぞめた寄せ書きと義援金募集の企画は、780名の人々の寄せ書きと手形押しの結果として残った。

ご協力くださった来街者の皆様へのお礼とご報告をかねて先々週に道路(観光センター前)に掲示させていただいたことは、すでにこのブログでもかかせていただいたけれど、見れば見るほど、780名の心が伝わってきて、おいそれと簡単に援助物資と同梱して送るには申し訳なくなってしまった。

そんな思いにさせてくれたのも、心のこもった一言一言の結晶の力だったのではないかと思った。

小学校では、校長先生が学校の入り口近くに掲示してくださって浅草から応援メッセージが送られたことを説明してくださったと聞いた。

「子供たちが本当に喜んでいます」「ありがとう」

そう言う校長先生の電話口の声に、僕は胸が熱くなり次の言葉が出なかった。

TON青春の1ページ

TONにも若いときがあったのであります。

仲間でキャンプに行った時、テントごとで出し物をということになり、余興で何をやるか相談の結果、「年下の男の子」をやろうじゃないかと相成ったわけ。

キャンディーズが世に生まれた時から知ってはいたけれど、まさか振り付け指導を受けて自分が踊らされようとは思ってもみなかったわけで、そんなことがファンのきっかけだから、ずいぶんとなる。
とにかく解散以降も時を過ぎても色あせない姿に同世代の清酒の象徴があるというのはなんとも心強いものだった。

母親の世代が、美空ひばりや大川橋蔵を青春の偶像と見る向きもわかるし、そこに青春を重ねあわす気持ちも痛いくらい理解できる。

そうした意味では、スターと言うのは、本人には申し訳ないが、社会的責任が公私にかかわらず付いて回ると思える。

スーちゃんの病床でのメッセージを聞いて、心に沁みた。
自分の病床にあっても、他の不幸をわずかでもぬぐえる手段として自分を鼓舞しようとする情熱に頭が下る。
一ファンであったことと同時代をともに生きたというありがたさを感じさせられた。

以下がその全文。

「こんにちは、田中好子です。
きょうは3月29日、東日本大震災から2週間経ちました。
被災された皆様のことを思うと心が破裂するような、破裂するように痛み、ただただ、亡くなられた方々のご冥福をお祈りするばかりです。

私も一生懸命病気と闘ってきましたが、もしかすると負けてしまうかもしれません。
でもその時は必ず天国で被災された方のお役に立ちたいと思います。
それが私のつとめと思っています。

今日お集まりいただいたみなさまにお礼を伝えたくて、このテープを託します。
キャンディーズでデビューして以来、本当に長い間お世話になりました。
幸せな、幸せな人生でした。心の底から感謝しています。
特に蘭さん、美樹さんありがとう。2人が大好きでした。
映画にもっと出たかった。テレビでもっと演じたかった。
もっともっと女優を続けたかった。
お礼の言葉をいつまでもいつまでもみなさまに伝えたいのですが、息苦しくなってきました。
いつの日か、妹・夏目雅子のように、支えて下さった皆様に、社会に、少しでも恩返しできるように復活したいと思っています。
かずさんよろしくね。その日までさようなら。」