分骨ということ

ネット上には、限られたものしか出せないのですが、念珠堂にはご供養に必要な商品が揃っています。

もともとお墓の製作をしていた関係もあるのと、供養の形の変化で分骨を手元に持っておくということが定着しつつあるように感じるのです。

そうした背景の変化に伴って、分骨のための小さいケースを探していらっしゃる方が年々増えている現状があります。

少しそのレパートリーをあげさせていただきまね。


左は黄瀬戸焼 右二つは銀チヂミ(普通の白いカメに表面処理したものです)

蓋を開けて内側を見ましょう。

九谷焼の代表柄のひとつ銀彩。

ピンクとブルー・グリーンのグラデーション。
香炉としての体裁もあるくらいかわいい。
銀のホヤを乗せれば、香炉として本当に使えますね。

こちらはずっと以前からの定番商品。
大理石をくりぬいた分骨壷です。

死は悲しい事実でありますが、決して忌みごととしてのみ受け止めるものでもないと思うのです。

故人に恥じない生き方をしようと思う出発の日でもあるわけですものね。

温故知新

会津塗りの厨子。
猫足が厨子の重層さを感じさせない軽快さに変えている。

もともと仏教にはなかった先祖供養の概念は、中国を通過するとき道教をとりこむことで概念化した。

そのことが、仏教が日本に浸透した一因をになうことになろうとは、仏様でも・・・
いやこれは言いすぎ。
仏の心の深遠さ摩訶不思議さを感じてやまない。

神道の神と仏とが結びつくおかげでさらに深く浸透する結果を生む。

だから、寺院の縮図の仏壇には、仏(死者ではない)と仏(先祖)が同居する。在家にはこんがらがった見方が生まれる原因を作った。

本来、仏壇にお給仕することは回向(えこう)することなのだ。
本尊の仏様にお給仕をし、経をあげ、八正道を誓いすることで、仏(本尊)に自分が近づくこと、その功徳を亡くなった方に手向けて欲しいと願う。すまり回向なのだ。

最近お客様と接するたびに、
「私の仏様」「私の守り本尊」
ということを、たびたび耳にするようになった。

家の宗教。仏壇の仏様。が厳とあって、
自由裁量のない仏壇屋。
「仏壇の仏様があればいい」、買う方にも、売る側にも
そのいい加減さがあった。しやでしかたなかった。
自分も含めて風穴を開けたいと思っていた四半世紀前から、
守り本尊を持ち出し、事あるごとに推し進めてきた。

けれど、今ほど守り本尊が一般化しようとは、
当時は思いもよらなかった。

まして、仏壇と離れた仏像を個人が持つなどと言うのは、
一部の信仰や嗜好の強い方程度のお話しだった。

救世観音だ、夢違観音だ、走り大黒だと、
様々作らせていただいている間に、
その噂を口コミニュケーションで伝えていただいて、
多くのご縁を頂戴もした。

けれど、口コミという伝達はあくまで結果の世界と思う。
その前提として、
「わたしの仏さま」を望む声が渦巻いているのだ。

「家の宗教」というしばりから、
本来の個の宗教へと期待が広がってきているのだと思う。

ますますこの傾向は強くなるのだろう。

だから、供養の形に決まりはない。
そう応えるしかない。

ただ、供養しやすい形。
祈りの形はあると思っている。

さらに言うならば、こうした形を崩すことで、
一度現状を離れてみたらいいと思う。

すると、余分なものを削ぎ落とした、
供養の形が再び形作られるのではないのだろうか。

古来からの仏壇に仏さま。お位牌に荘厳具。
その姿に仮にい戻ったとしても、それが日本人の心のふるさと、
原風景として刷り込まれたものなのだと思う。

今まで仏壇というと避けてきた旧来の古臭いと思われていた姿が結局、
近い将来に、も一度見直されるとぼくは予感している。

写仏と写経

仏画と写経をひとつにして表装をする。

色は入れないが、仕上がるとなかなかのものである。
多少絵心はなくとも、心がこもる一筆は沁みるものがある。

巡礼軸を預かるとは。

表装依頼で巡礼軸を、よくお持ちいただく。

尋ねて来られるお客様も、せっかく巡礼いて集めてこられた御朱印を
なんとかしたのだけれど、どこに依頼すれば良いのか
皆目見当もつかず、床の間にたて掛けて置くにまかせざるをえなかった…

というのが正直なところのようで、
たまたま、当店の前を通りかかったら、店奥に架けてある観音軸に目が留まり
「もしかしたら…」と期待されて尋ねてこられるのだ。

というパターンが、圧倒的に多い。

実のところ、もともと写経用品も、巡礼用品も、
お客様への便宜から最小限度を展示していたのだ。

それが、
ある時期、テレビや新聞などの取材の連続で、
店側の意とせぬところで、需要が急激に拡大した。
(Boo店長も、ゴールデンタイムの番組に出演したことがあるのです。
受像機壊れなかっただろうか…)

そんなこんなで、図らずも、コーナーと商品点数の拡大をせざるを得なくなった
という裏話なのですが、が、しかし、一度廻りだした車輪は、
スパイラル的に拡大するようでして、
いつのまにか、少しばかり都内では優位な品揃えの店に成長させていただいた。
というのが、本音のところなのです。

こうして巡礼し、集印されたマクリ(表装前の状態のこと)をお預かりするたびに
実は、ブル!っとくる。

(「ブル!」なのに赤字の表記……?
というところが実はミソなのですが…)
ご理解いただけるでしょうか?

度々、神妙な気持ちにさせられる。

「巡拝軸」にしても、「集印帳」にしても、お客様は当店から
お買い求めされて、巡礼に出かけられます。

そして、何ヶ月かされて日焼けされた顔で再びご来店されます。
表装をご依頼される為です。

お預かりする「それ」は、
数ヶ月前の「それ」ではなくなっているということなのです。

すでに魂の入った、まさしく「御霊」そのものなのです。
もちろん、表装が済んでお寺で開眼されてようやくお御霊となるわけですが
預かるその時点でも、実は充分お御霊と感じられる次第なのです。

携わるものならきっと同じ感触を持つことでしょうが
僕は、受け取った瞬間、ズシ!
っと、その重みを感じます。

お買い上げいただいた数ヶ月前とは、
全く異なるものに化けている。

思いや祈りを質量であらわせるなら、
きっと僕には持てないくらいの重さなのでしょう。

だから一気に、巡礼されてきたお客様の心のレベルまで
グイっと持ち上げられるというのか、引き揚げられるのを感じる。

受け渡されるたびに、そんな畏怖心ともいえるものが
水面下でいつも波打っている。

それはまた、楽しみのひとつでもある訳です。

お参り

毎月一日は、浅草寺のお掃除会と靖国神社と言うのが恒例なのだが、
出っこみ引っ込みしながらも14年間続いている。

曲がりなりにも会社の責任者をしていながら、合間を縫って
10年越えて続けられたのは、我ながら驚きなのだ。

8月は、靖国神社にとって、
終戦記念日のある特別な月。

過去を振り返ると、8月のお参りは、どういうわけか一度もない。
できなかったのである。
様々な理由から、逝きそびれていたのである。

最近、親しくさせていただいているSさんのご縁で、
元特攻隊の方と再会する約束もある。

しかも今回は、遊就館を共にしてくださることになっている。

何度通ったかしれないこの記念館だけれど、
実際に出撃し、負傷しながらも帰還した方にこの場で話を伺えるのは
本当に、貴重この上ないものと思う。

うれしくて指折り数えているのだけれど、
どうぞ何もありませんように…
子供の遠足のような心境だ。
場所柄、不謹慎はいかんと自分をたしなめている。

8月の参拝、今年はどうやら、かないそうである。

難しいことはないよ

供養するのには、形以上に供養したい心が必要だよね。

そういう気持ちをどう盛り上げ、つなげていくか、
そういうを探している。

供養のかたち

ペットを愛でる心。

悉有仏性(しつうぶっしょう)

全て生きとしいけるものに、仏性ありと説いた、釈尊の言葉をかみしめる。

「悉有仏性」は、「涅槃経」の師子吼菩薩品に説く「悉く仏性有り、如来は常住にして変易(へんにゃく)あることなし(悉有仏性 如来常住 無有変易)」にもとづいています。

時は変わる…

位牌も変わる。

「位牌と言うとあの黒くてすす汚れたのでしょ?」
となるのが落ちでしょう。

けれど、時代は変わったのです。