吉良邸

近いのに一度も寄ったことがなかった。
たまたま、近くに用事があって両国をうろうろする。
路地をまわると、ふと目に入る。

え!こんな裏道にあったの?
ひっそりと歴史の残像が残っていた。

このあたりも今でこそビル郡に変貌してしまっているが
震災が無く、空襲も無ければ
どんな風景が残っていたんだろう。

縁 

子供の授業参観に来ると、
窓の外がやけに騒がしい。

近くの窓から覗いてみるとJRの線路際。
行き来する電車がその原因だった。

そうかと目を左に移してみると広大な墓の波。

寛永寺霊園越しに寛永寺が遠望できる。

窓を開ければ、霊園と寺。

どこまでお寺に縁があるんだろうか・・・

秋葉神社

秋葉原の語源になった秋葉神社。

今は、松が谷に移築されている秋葉神社だが、
もとは、ここ竹町の秋葉神社が元ではないかと思う。

もともと、明治天皇が大政官に命じ皇居内の紅葉山より鎮火三神を、
現秋葉原駅の出羽久保田藩佐竹氏屋敷に勧請し屋敷神とした。

  

須賀神社

浅草から浅草橋に向かうと二箇所、神社の前を通過する。
重い荷を持って行き来するので、
この前はいつも通過してしまう。

書き師が蔵前にいるので、位牌を持ち込んだ足で
浅草橋まで用足しに向かう。

「ギラ!ギラ!」の形容がピッタリ来る直射日光
明らかに30度を超えているだろう。
日の当たる腕がヒリヒリする。

神社前を通ると、そこだけ木がうっそうとしていて
聖域に流れる気と相まって、清涼感がある。

須賀神社

今でこそ50坪もあるかという狭さであるけれど、
創建当時は、比べ物にならない聖域を誇っていた。

聖域に車が入っているのは、どうも…と思うのだが
しかたないのかな。

社の由来。

牛頭天王(スサノオノ命)を祭る。

愛宕山、昨日の続き

愛宕ってもともとは、慰霊の土地につける名称。
その為とも思われないが、別格クラスの寺が軒を連ねている。


心霊スポットもあったり

肝試しに夜中、一周してこいと言われたら
早々に辞退するだろう。

こんもりとした杜は、都会の中に憩いを感じさせる一方
そこが霊地であり、聖地である。
つまり祈りの場なのだと言うことを
忘れてはならないことを感じさせられた。

放送博物館を下見し汗が引っ込んだ頃合をみて
勇気を奮って外に出る。
ちょっと目を横に向けるともうそこが愛宕神社だった。

本来なら、この男坂をハーヒーいいながら上るところ
グリーンヒルをとことこ歩いてくると苦もなく神社に到着と言うのは、
得した気分。
井上陽水の「断絶」のレコードジャケットのように

青年が階段に腰掛けて涼んでいたが、
緑が多いためか体感で2~3度違う感じだった。

ぼくは、これで涼んだ。

神社の由来を読んでいると

尊攘義軍玉砕十二烈士女という説明文を発見した。

昭和20年8月22日憂国の士が自決したと二行に渡ってさらりと記されていた。
境内を探したが、殉死された碑は見つからなかった。

ただ、柵で仕切られ、立ち入れない、草ぼうぼうのコーナーが、
ひっそりとあったが、そこが何を示す場所かの掲示はされていなかった。

後で調べると、どうやらそこが殉死した場所と判明した。
戦後22年の自決とは言え、憂国の思いをもって逝かれた志、
もう少し丁寧に扱えないものかと感じつつこの場を辞した。

考えると、
戦後に特攻が行われたことも、
1000名以上のB、C級戦犯と冠された元日本兵が
戦勝国の一方的な裁きで刑場の露と帰したことも、
多くの憂国の士が戦後自決したことも、
その多くが正しく伝えられていないことが、気にかかった。

地元で聞くと、他の戦跡もあったそうだが、
全て片付けられたと聞いた。
戦跡は残さない方針なのだろうか…

帰り道は、灼熱地獄だった。

愛宕山は異空間

今日は仕事でここ。
たまに浅草を離れ港区に。

愛宕山に分け入った。

山とはいえ、ここは港区。
東京タワーがどこからも望める。

エレベーターだものね…

個性的な結界杭?かな。

このコントラスト…

目的のお寺にやっと到着。
しっかし暑かった・・・・・

飛び込みたい衝動!!

蔵前神社

職人に位牌の戒名書きをお願いするときは、
自転車でスイーと一速飛びで到着する。

さすが台東区は寺町だと思う。

そこかしこに、なりは小さくなってしまったものの
由緒正しき社寺仏閣に出合いながら、横目に走る。

最近はブログネタを探すくせがついて、
つい引っかかってしまう。

今日は、職人の工房近くの蔵前神社。
もともとは京都岩清水八幡宮を勧請し
その分社だった。
江戸時代は「岩清水八幡宮」と名乗っていた。

合祀合祀で、隣接していた神様を取り込むことになり
境内に稲荷も別棟で祭られていた。

布施額はなかなかの面構えをしていた。

狛犬の台座に歌が詠まれていて珍しいと思った。

江戸時代から勧進相撲を23回も執り行ったという。
相撲協会との縁の深さが現れていた。

不動院

白髭橋近く橋場には、不動院がある。
今は寺域もわずかだが、信仰の息吹は
そこここに感じることが出来る。

こういう様は、都会の寺院らしい。

大正時代の布施板
最近の画一的なものとは一味違う。
小さなところにも信仰の香りがぷんぷんしてくる。

お百度石も残る境内。

浅草駒形堂

昼間の雰囲気とは打って変わる駒形付近。

馬頭観音がご本尊。
新築された駒形堂もいいけれど、

古い姿もおつなもの。

以前の駒形堂はこんな感じでした。

隣の「むぎとろ」で食べました(^^


桃のババロアです。
べり~グー。

浅草寺

浅草寺境内は、今の管主さまが就任されてから、
さまざま手を加えられ、祈りの場、憩いの場として、
整ってきていることが肌身に感じる。

今までどうして手付かずにされておくんだろうと、
不思議に思えていた箇所が、
次々と手を加え、新しくされている。

確かに、膨大な資金が必要とされるだろうし、
それだけのお金があるなら、
宗教家は施すことに使ったらどうなんだ。
などと、持論としていつも腹に持つ。

けれどここは、し過ぎなかった…

何たって、
世界の浅草寺である。
日本は知らなくても「浅草」の名は一人歩きするほどのブランドである。

浅草寺テンプルに夢を抱いて訪れる外人も、
日系人もいらっしゃるのである。

戦争前の緑あふれた、浅草公園のイメージは、
ここに立つと、もろくも崩れる。

戦後の仮復旧のままの姿が、今までのここだった。

心ある方は心に思えど・・・ではなかったのだろうか。
巡礼地でもあり、これだけ巡拝者が集まっても、
お休み所は民間のお土産所のみ。

信徒会館すらないのである。

浅草寺病院を皮切りに福祉会館、御影堂周りのお堂群、
宝蔵門、公衆トイレ…

そのうち戦災銀杏を軸にした緑の多い公園になったりして。

心字池も復活したりして…  そうなったらいいなあ。

ここも、ようやく手がつけられた。
二尊仏裏の地蔵も貴重な史跡だったのだが、今までは無残な状態だった。
やっと手が加えられた。


うれしいねえ。

今の管主さんのご実兄が天台座主になられたことが発表された。
浅草寺、さらに変わるかなあ。

http://www.tendai.or.jp/journal/kiji.php?id=1170036339