秩父行き

急きょ飛び出した。

実は巡礼は半分諦めかけていた。
時間が取れそうになると雨、急な仕事と・・・
なんども延期がつづいていた。

ようやく時間が取れそうと思ったら、なんと今日一日しかない。
これじゃあ、廻りきれないし・・・

一泊して全札所を廻りきるつもりだったから、
規模の縮小に若干気落ちして、それならいっそ、
昔ホームコースだった三浦半島を一周して練習をかねて走ってこようかか・・・
そんな程度に心変わりをしていた。

けれど、これから3ヶ月は、お盆や秋彼岸が続くから、
仏壇屋の繁忙期になるので、もうとてもじゃないが動けなくなる。
それはもう目に見えている。

今しかない・・・、
なら、できるところまでやるか。
と、腹を決めて飛び出した次第。

準備は完了していたとはいえ、半分諦めかけていたから、
つめができていない。
とにかくリュックに思いついたものを詰め込んで、
5時の出発予定が1時間ずれ込んで6時に家を出た。

池袋から西武池袋線を使えば特急で一時間あまりだから、近いといえば近い。

父の実家は花小金井なので西武新宿線は子供の頃の墓参りで
よく利用していたから、馴染み深いのだが、池袋線はこれで2回目。
ほとんど縁がない。

終点の西武秩父駅まで地図とにらめっこなので厭きることはないが、
腹が減って仕方がない。終点で駅そばを食べよう。

終点手前になると車内がざわついてきた。

見るからに巡礼者と思われる方々が降りる準備をし始める。
不思議に思い地図を見ると一つ手前の駅が札所1番に近い。
ここで下車するほうが便利なのだ。

ならば急きょ飛び降りる。

降りてみるとなあんにもない小さな駅。


こんな感じで出発

1番札所に向かう。
方向音痴だから、出発から逆方向に走ってしまうなんてことも日常茶判事のぼく。しっかりコースをイメージして駅前と分かれる。
10箇所も廻ればいいだろう。気は楽だ。

けれど、後ろに石灰岩掘削のため醜くえぐられた甲武山の異様な姿を背負い、頻繁にセメントを満載した大型トラックの走る国道を走る。あまりよい気持ちはしない。

途中小さな箸をわたる途中、ギャギギャギと聞いたこともない異音が後ろのタイヤあたりから聞こえる。
あわてて止めてチェックするが、何事も見つからない。

走り出し、あまりの空腹に地元のスーパーによる。
自転車を降りたと同時に何か黒いものが地面に落ちた。
何かと手に取ると、ブレーキの部品。
緩んでナットがハズれたのだ。

早速トラブル。しかもブレーキ・・・
自転車から部品をはずして、なんとか事なきを得て出発。


江戸古道があちこちに残っていて歩きよい。
が、運動不足のつけは充分足にきている。

あぜには菖蒲のような花が美しい。
今出た寺を菖蒲と一緒にカメラに収めようと農道の脇に止める。

地面に足をつけようとした。瞬間足が空を蹴る。
「地面がない!」自転車ごとドボーン!
・・・というほど深くはなかったが

その花に抱きかかえられ潜ることはさすがになかった。

いろいろありましたが、一日が終わりました。

残り24箇所は十月先かな。

吉良邸

近いのに一度も寄ったことがなかった。
たまたま、近くに用事があって両国をうろうろする。
路地をまわると、ふと目に入る。

え!こんな裏道にあったの?
ひっそりと歴史の残像が残っていた。

このあたりも今でこそビル郡に変貌してしまっているが
震災が無く、空襲も無ければ
どんな風景が残っていたんだろう。

縁 

子供の授業参観に来ると、
窓の外がやけに騒がしい。

近くの窓から覗いてみるとJRの線路際。
行き来する電車がその原因だった。

そうかと目を左に移してみると広大な墓の波。

寛永寺霊園越しに寛永寺が遠望できる。

窓を開ければ、霊園と寺。

どこまでお寺に縁があるんだろうか・・・

秋葉神社

秋葉原の語源になった秋葉神社。

今は、松が谷に移築されている秋葉神社だが、
もとは、ここ竹町の秋葉神社が元ではないかと思う。

もともと、明治天皇が大政官に命じ皇居内の紅葉山より鎮火三神を、
現秋葉原駅の出羽久保田藩佐竹氏屋敷に勧請し屋敷神とした。

  

須賀神社

浅草から浅草橋に向かうと二箇所、神社の前を通過する。
重い荷を持って行き来するので、
この前はいつも通過してしまう。

書き師が蔵前にいるので、位牌を持ち込んだ足で
浅草橋まで用足しに向かう。

「ギラ!ギラ!」の形容がピッタリ来る直射日光
明らかに30度を超えているだろう。
日の当たる腕がヒリヒリする。

神社前を通ると、そこだけ木がうっそうとしていて
聖域に流れる気と相まって、清涼感がある。

須賀神社

今でこそ50坪もあるかという狭さであるけれど、
創建当時は、比べ物にならない聖域を誇っていた。

聖域に車が入っているのは、どうも…と思うのだが
しかたないのかな。

社の由来。

牛頭天王(スサノオノ命)を祭る。

愛宕山、昨日の続き

愛宕ってもともとは、慰霊の土地につける名称。
その為とも思われないが、別格クラスの寺が軒を連ねている。


心霊スポットもあったり

肝試しに夜中、一周してこいと言われたら
早々に辞退するだろう。

こんもりとした杜は、都会の中に憩いを感じさせる一方
そこが霊地であり、聖地である。
つまり祈りの場なのだと言うことを
忘れてはならないことを感じさせられた。

放送博物館を下見し汗が引っ込んだ頃合をみて
勇気を奮って外に出る。
ちょっと目を横に向けるともうそこが愛宕神社だった。

本来なら、この男坂をハーヒーいいながら上るところ
グリーンヒルをとことこ歩いてくると苦もなく神社に到着と言うのは、
得した気分。
井上陽水の「断絶」のレコードジャケットのように

青年が階段に腰掛けて涼んでいたが、
緑が多いためか体感で2~3度違う感じだった。

ぼくは、これで涼んだ。

神社の由来を読んでいると

尊攘義軍玉砕十二烈士女という説明文を発見した。

昭和20年8月22日憂国の士が自決したと二行に渡ってさらりと記されていた。
境内を探したが、殉死された碑は見つからなかった。

ただ、柵で仕切られ、立ち入れない、草ぼうぼうのコーナーが、
ひっそりとあったが、そこが何を示す場所かの掲示はされていなかった。

後で調べると、どうやらそこが殉死した場所と判明した。
戦後22年の自決とは言え、憂国の思いをもって逝かれた志、
もう少し丁寧に扱えないものかと感じつつこの場を辞した。

考えると、
戦後に特攻が行われたことも、
1000名以上のB、C級戦犯と冠された元日本兵が
戦勝国の一方的な裁きで刑場の露と帰したことも、
多くの憂国の士が戦後自決したことも、
その多くが正しく伝えられていないことが、気にかかった。

地元で聞くと、他の戦跡もあったそうだが、
全て片付けられたと聞いた。
戦跡は残さない方針なのだろうか…

帰り道は、灼熱地獄だった。

愛宕山は異空間

今日は仕事でここ。
たまに浅草を離れ港区に。

愛宕山に分け入った。

山とはいえ、ここは港区。
東京タワーがどこからも望める。

エレベーターだものね…

個性的な結界杭?かな。

このコントラスト…

目的のお寺にやっと到着。
しっかし暑かった・・・・・

飛び込みたい衝動!!

蔵前神社

職人に位牌の戒名書きをお願いするときは、
自転車でスイーと一速飛びで到着する。

さすが台東区は寺町だと思う。

そこかしこに、なりは小さくなってしまったものの
由緒正しき社寺仏閣に出合いながら、横目に走る。

最近はブログネタを探すくせがついて、
つい引っかかってしまう。

今日は、職人の工房近くの蔵前神社。
もともとは京都岩清水八幡宮を勧請し
その分社だった。
江戸時代は「岩清水八幡宮」と名乗っていた。

合祀合祀で、隣接していた神様を取り込むことになり
境内に稲荷も別棟で祭られていた。

布施額はなかなかの面構えをしていた。

狛犬の台座に歌が詠まれていて珍しいと思った。

江戸時代から勧進相撲を23回も執り行ったという。
相撲協会との縁の深さが現れていた。

不動院

白髭橋近く橋場には、不動院がある。
今は寺域もわずかだが、信仰の息吹は
そこここに感じることが出来る。

こういう様は、都会の寺院らしい。

大正時代の布施板
最近の画一的なものとは一味違う。
小さなところにも信仰の香りがぷんぷんしてくる。

お百度石も残る境内。

浅草駒形堂

昼間の雰囲気とは打って変わる駒形付近。

馬頭観音がご本尊。
新築された駒形堂もいいけれど、

古い姿もおつなもの。

以前の駒形堂はこんな感じでした。

隣の「むぎとろ」で食べました(^^


桃のババロアです。
べり~グー。