いよいよ

久しぶりに昼間、浅草寺東参道まで足を伸ばした。

ここは最近、観光バスの駐車場の如く光景で様々な色の大型バスが列を連ねている。

客待ちのバスの合間を抜ける時の怖さといったらない。
戦前までは、お土産屋や老舗がノキを連ねていたと聞くし、鬼婆伝説の残る小さな池あたりには、浅草寺にまつわる一の権現社、アカザ堂といった歴史的重要な建物も会った場所でもあって、浅草を語るときには、材木町や並木町のあった雷門地区と花川戸地区ははずせない地域なのである。

友人がこの道を整備すべく奮闘しているが、その第一歩は江戸通り側にその足跡を残した。二天門通りという古い石柱の復元と東参道という古名称の復活である。

話は戻る。
ここは念珠堂のある雷門からは少々遠いし、多くの飲食店が途中には腐るほどあるのだが、なぜか此処まで足を運んでしまう。
自分ながらのプロムナードともなっていて、自然と足が向いてしまう。

しかも、外食しない主義の僕は、ただ、気に入った店は生涯行く。

行くところはあちこちつまみ食いしない。ここも20年以上通い続けている。
いつものセリーヌでカレーを食べ終わり、さて川沿いに出てスカイツリーを見ながら帰ろうか。

と、したところ、二天門にふと目が向かう。

問題はそのさらに向うにあった。

二三日こちらまで足を伸ばさなかったので気づかなかったが、浅草寺の本堂を覆っていた仮組がはずれてなにやら屋根らしきものが拝めるではないか。

もう川に向かう気持ちは消えうせて、気づくともう浅草寺に向かって走り出していた。

おっおーー

きれいな朱赤に化粧され、独特のそり屋根がお披露目されている。


なかなかきれいだ・・・


正面側の龍の絵も透けて見える。

二天門が新しくなり、元の影向堂跡地もトイレ付近も整備され緑がふんだんに増えたし
境内は随分と様変わりしてきた。


それにしても外人さんが多いなぁ・・・

御影堂付近

浅草寺は神様仏様のデパートのようなところ。
それもそのはずで、明治維新まで、浅草寺塔頭(たっちゅう)に奉られていた仏様や神様が廃仏毀釈のあおりを受けて、廃寺、取り壊しの憂き目に会い一つところにまとめられてきたという経緯があるからなのです。

本堂の西側に御影堂と呼ばれるお堂があります。
御影堂と書いて何と読むか。正しく読める人は実に少ないのです。

「ようごどう」と読みます。

ここには干支による守り本尊が聖観音様を中心に祀られて善男善女のお参りに事欠きません。

ただ、その存在を知らない人も意外に多いですが。
以前は、本堂東側公番の後ろあたりにありましたが、境内に分散していた堂宇と共に現在地にまとめられました。

なかなかよい姿をしています。


ちょっと東大寺大仏殿を連想してしまいそうです。
かなりミニチュアですが・・・


なんともいえぬ落ち着きがこの空間にはあります。
浅草寺門前の雑踏に疲れたらここで一服するのをお勧めします。

おいしそうな・・・
いやいや、かわいい鯉たちも出迎えてくれるでしょう。


都内最古(1618年)の石橋も現存です。
もとは随身門今の二天門に向かって架けられていたようです。

主戻る


ようやく二天門に主が戻ってこられた。

やはりここにおられないとね。

浅草寺の瓦

これから葺く瓦か屋根から降ろした瓦か解らないけれど、
ビニールで包まれているところをみるとたぶんこれから葺くのだろう。
ということは、チタン瓦かな?

昇殿参拝

月初めは靖国神社の昇殿参拝。
そのあとは必ず遊就館によるを日課としている。

世話人をしてくださっていた師にはお会いできなくなってしまったけれど。
いれば、ただになるからもって行きなさいとご自分の会員証を貸してくれたろう。
でもぼくは終身会員だから実際はフリーで入れるのだ。けど、いつも気にかけてくれた。そんな人がいないというのはどこなく物足りなくなるものだ。

いつものようにエレベーター奥の兵士の像に挨拶をして、展示室に入るが目的は特攻のコーナーにおられる新海中尉に挨拶をするためゆえ、ほとんどのコーナーは足早に過ぎる。

途中ふと足が止まる。
日清戦争に至った経緯がやたらと気になってつい腰を落ち着けてしまった。

NHKが坂の上の雲を放送していたせいなのか、日露戦争のコーナーにはやたらと若者が多く目に付く。
日清日露の戦役もよくよく研究しないと大東亜戦争、太平洋戦争の意味あいも導き出されない。

泰緬鉄道はご存知の方も多いと思うが、タイとビルマ(ミャンマー)を結ぶ補給路の為に日本軍が昭和18年に敷設した鉄道である。
機関車はC62型の蒸気機関車が使われた。

泰緬鉄道が開通した時のその当事者(車)が靖国神社の遊就館に保管されている。
タイ国鉄で使われていたものを関係者の浄財で日本に帰国した。
戦後も使われていただけに今でも釜に火を入れれば走りだしそうなほど手入れは行き届いている。

帰り際、C型らしい大動輪が目に飛び込んで釘付けになってしまった。


昭和11年生れの躯体は戦前、戦中、戦後の動乱期を越えてきた。
どんな歴史を見てきたのだろうか。



桜はまだまだでした。

塔の見える風景

浅草寺五重塔を垣間見える路地。

手前の看板は」有名なてんぷらの大黒屋


こちらは現代の塔。

303m・・・むくりとそりの伝統美というけれど五重塔には・・・とてもかなわないねえ。

駒形堂ご縁日

今日19日は、駒形堂、本尊馬頭観音様の御縁日。

この日は毎月駒形堂内にて浅草寺住職による法要が営まれる。
雷門東部町会が法要を支えてきている。

昔は駒形堂の位置はここではなく、30mほど下流に位置していた。
ちょうど駒形橋の辺り、今は浅草通りの車が行きかう真ん中に位置していたことになる。

江戸の当時は橋などなく、渡し場があった。
渡しを渡れば江戸を離れる。さらに古くは宿場としても栄えた土地柄でもある。

当時の駒形堂は、現在とは180度逆に向いて、つまり隅田川に向かって建っていた。
今で言うウォーターフロントがすでに生かされていた水の都であったわけで、浅草寺の戒殺の地ともあり、水辺に住む魚類を獲ることは禁止された地でもある。
川を向いて建つ駒形堂は、同時に行きかう大小の舟の運行の安全をも担保していたのだろう。

本日いただいた散華には、ちょうど江戸時代の駒形堂の図が描かれていた。

ちゃんと川に向かって開扉しているのがうかがえる。