浅草のそら 東京大空襲の慰霊日

今日は3月10日。

都民であればまず80年近く前になるとは言え東京の空を何百にもの敵機に覆われ、無辜(むこ)の命を一晩にして10万人近く奪った大空襲を忘れることはできない。
人々(とくに女子供達は)いかばかり恐ろしかっただろうか。

町内が全滅した話も聞いた。焼夷弾の熱波から逃げる余り小学校などのプールに飛び込んで折り重なるように亡くなった人々のことも、言問橋の橋上で浅草区、墨田区両側の炎に動きが取れないまま亡くなった数千人の住民の話も繰り返し聞いた。今は桜の名所になる公園も数え切れない人々の仮埋葬場と空襲後に駆り出されて遺体処理をさせられた話も何度聞いてきただろうか。疎開から帰ってくると家も親もいなくなって路頭に迷ってしまったなど。。。

身の回りから大正生まれがいなくなり、昭和一桁も数えるほどになり直接体験してきた先輩たちがいなくなってくると、文言だけの伝書となってきた。そこにいかに等身大の人の情が込められ正しく伝わるかがこれからの大事な部分なのだろうと思えてやまない。

写真は我が町会に当たる吾妻橋西詰。

吾妻橋からアサヒビール(朝日麦酒)が望まれる。

もうこんなに咲いてるの!

はい。

残念でした。

去年の画像でした。

そう考えると、去年は暖かかったんだね。。。

はい残念でした。

ソメイヨシノの多い墨田公園ですがこの桜は少数派の大寒桜でした。
ピンクが濃いのが特徴です。

大寒桜が葉桜になるころソメイヨシノが開花します。

浅草のそら 東京マラソンなのだ・・・が。

東京マラソンの当日。
相変わらず街は雑然とした空気が占めている。
以前なら日も明けやらぬ前からガラガラ、カンカンと忙しない音を立てて準備をしていたものだが2008年から16回?も繰り返していると慣れっこになってくるのか朝食をとる時間くらいからが本番になって言うように見受けられる。

外人客が戻ってきて以前の賑わいに戻っている浅草でのマラソンコース取りは遠藤の賑わいが大変な状況になるのではと心配した。

が、ふたを開けてみると意外や意外・・・。

緊急車の確保には怠りない。
雷門通りの人垣

コースが閉まる前に人出の状況を確認がてら一回りしてみたのはいつものこと。
来街の外人客がどう影響するかなと心配をよそに、地元がまず顔を見ない。前なら三重、四重だった人垣がスカスカの一重。コロナの最中ならわかるがなんで?と思うくらい人が少ない。
なぜかなぁ。。。厭きた?
確か運営本体に台東区が関わらなくなったと誰かに聞いた。
だから雷門前の見附けで応援していた地元の子供たちの演奏やかっぽれの有志や諸々の姿ははるか遠くにその場所を変えてしまってコースを走るランナーの足音だけが響くやたら浅草らしくない光景へと変貌した。

今回地元への説明も封書一通の交通規制の書面だけだったっけ。
以前なら、タイアップの商店街連合会から街路灯へのフラッグが掲げられ嫌がおうにも大会気分は盛り上がっていたもの直だが。
ついでに言えば念珠堂の位置する雷門デルタ地帯は、三角形の町内の右も左も全面も、マラソンコースに囲まれてしまい身動きがとれなくなる閉鎖空間となる。
日曜日のかきいれ時にもかかわらず、人の交通を遮断させることに以前の運営側はかなりの神経を使い地元回りをし、暴動が起きないようにしてくれていた。

が、今回はそれが一切ない。
交通規制の一般への情報伝達のみだったわけで、この簡略化はなんだろう。。。
慣れ?十数年の大会実績は自ずと権威と化してしまって反対する方がおかしいって?なってしまったんだろうか。

当初から言い続けているが、全然解決されていないんだよ。このデルタ地帯のコース設定。

今まで火事や窃盗が起きていなかったから去年並みでOKとなっているけれど、もし不測の事態が起きた時緊急車があるから大丈夫?今までが助かっただけと考えるのが防犯災の考えじゃないかな。。。
祭りの楽しさがどこか色あせた気がした本日でした。。。