ついになくなる・・・

河川法では認められるはずもない河川内の船舶の係留。

川の断面は、流れ込む影響のある流域面積に土地の特性(都市部か農地か等など)ともいえる流出係数を乗じ勘案しながら流量計算をして安全率を含めて決定しているのだから、河川断面を狭くさせる構造物は認められる筈はない。

まして増水時にそれらの船舶や係留施設が流された場合、橋梁のピアやアバットにぶつかったり、橋梁本体に引っ掛かってそれによって閲水、場合によっては橋本体をも破損させる恐れがあるためと言える。

これは技術者としての弁。

けれど、夕闇が迫り茜色の川面に屋形船の係留されるシルエットなる風景は、何とも言えず情緒のあるものだった。

そして、ついに撤去が始まった。


海水が混じると見えて、貝殻が杭にびっしりついている
この貝殻のついている長さが川面の干満の差なのだなあ

数日後にはきれいサッパリなくなるだろう。
ここにも上下流から迫っているテラスの工事が始まる。

風物詩が一つ消えた。

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浅草に竿灯

浅草は本当に何でもアリのところだ。

秋田の祭が、さわりではあっても見れるとは思っても見なかった。

夜空に提灯の灯りが並ぶのは、何ともいえぬ風情を感じる。
普段なにげなく通っている日常の通りでも、とたんに非日常に塗り替わる。

僅か三基の竿灯ではあったが、観る観客の声援はたいしたものだった。

かっぱの里から

ここはここは合羽橋本通りです。

浅草から合羽橋道具街へ抜ける狭い通りですが、河童の里として頑張っている商店街でもあります。
通りのあちこちにかわいい河童の人形を配置したり、緑あふれる「河童のお皿の乾かない通り」として緑化事業に励んだりと勢いを増している通りです。

実はここからの眺め・・・
スカイツリーのことですよ。
見返りツリーとでも言いましょうか(東に向いていれば真向かいツリーですが・・・)ドーンと巨大にかつ迫って見えます。
それをまた街創りに生かそうと試みているわけです。

そんな効果が人通りに比例しているような気もします。

雨の道具街をこんなに人が通るのは以前は見れなかった光景です。
外人も多いですね。

なにごとにも興味アリ

交通委員会の帰り道、

三時を回っていたけれど、外食は好かないTONは近くのコンビニでパンを買い雷門通りを吾妻橋に向かうかたちでお店に帰ろうとすると、雷門前は、雨にもかかわらず黒山のひとだかりだったのであります。

途中に信号はないから、人混み嫌いなTONはこの場合いやでもその中を突っ切らなければならなかったのでありました。

なにやら街頭演説のよう。

ここは、演説のメッカだからね。

と、自民党の垂れ幕。
見上げると、小泉jr.

一度聞いてみたかったこともあり、傍聴者のひとりとなったのであります。
が、いかんせん雨。しかも本降りになってきた。何よりも傘がない。

コンビニの袋を頭にかぶせるわけも行かないし。
目の前を見ると子供が保育園の頃から仲良くしてもらっていたA君のお父さん。
交通整理要員で駆り出されていたのね。

見るに見かねて何人か横に傘を持つ人がいてその中に案内してくれました。

これで濡れずに聴けるかなと安堵もつかのま、
なんと傘と傘の合間に立たされてしまったTONなのであります。

僕の存在を知って知らずか、相合傘になりたくなかったのか・・・

さあどっちの陣地に入ればよいのやら・・・

両方の傘に集まる雨水を谷間でもろに受けて、ますます水浸し。
濡れねずみならぬ濡れTONと相成ったわけです。

結局傍聴どころではなく、その場を急ぎ立ち去ったのでありました。

ねこ

白髭橋をさらに上流に走ると、とたんに様相が変化する。
墨田区側、つまり隅田川の左岸側の堤防沿いを上流に向かって走ると、明治通りまではジョギングコースが比較的整っている。

通りをこえると、そこは高速道路下の管理道路の様相が巾を利かせてくるので、走る人の影はほとんど見ない。

川向う、つまり右岸側の汐入地区のすんばらしく整えられているジョギングコースとは対照的に素朴さを残している。

TON的にはどちらも好きな道なのだが。

そんな場所にはブルーテントの人々がもう一歩りっぱな邸宅を構え生活している。

5、6匹の猫が日向ぼっこをしていた邸宅の主と猫談義をした。
彼と同居している猫たちのえさは大変なのだとか。自分さえ食うのにせいっぱいなのに・・・

「猫はね何匹いても共闘は組まないんだよ」
「敵が来ても一匹で対決する・・・」

まだまだ話したかったが、汗にまみれた体が冷えてきてしまったので、笑顔の彼とはばいばいし先を急いだ。

三社祭りです

三社祭り真っ只中。

雷門前のお囃子の屋台。


わが一之宮商店会の協賛で雷門のまん前で、地元太鼓の会の皇の会と、
江戸囃子の源流になる江戸葛西囃子保存会のみなさまのお囃子に、雷門前に集まった観客はみな酔いしれていました。

両国あたり


「よこづなちょう公番?」

震災記念館(被服廠跡)のある清澄通りと蔵前橋通りとの交差点にさしかかり聞かれた。

思わず吹いた。

「よこあみちょう」だよ。

綱と網。よく似ているし、
此処はそれ、相撲のメッカ両国の目の前だし。
しかたないと言えばしかたない・・・。

ここは、ぼくが東京に移り住んで間もないとき、いの一番に足を向けた記念館。
あの当時を思い出すと比較にならないほどの変わりようだ。

はとの糞にまみれ汚れた建物や境内。薄暗い堂内。

あえて境内と呼ぶがここは公園であって境内ではない。
寺のように見えるが寺ではない。

あくまで公園なのだ。
公園でなければ政教分離の立場から、都は維持費を出すことはできない。

花一つ買うことはできない。
半ばボランティアで管理していたSさんに以前、さんざんこぼされた。
植木職人だった彼は、あまりにもむごく悲しい堂内に置き去りにされていた彼ら彼女らに手を出さずに入られなかった。朝には全ての瓶の蓋を開け「おはようと」言って回り、帰りには蓋を閉め、「おやすみ」と戸を挨拶をして帰る。

そんな彼の誠実が堂宇を明るくさせていったと僕は思う。

ただ、いくら境内が明るくなったとはいえ、
ここに数十万人の引き取り手のない、無縁仏となった遺骨が頑として保管されているのを忘れてはならない。

一度その光景を・・・

天井にまで及ぶ書棚のような棚割の中に白い特大の瓶が整然と並ぶ収納庫を見れば、忘れることができようか。

瓶には何処何処の何丁目の何某と名前まで書かれているのも少なくない。

けれど、戦後60年以上、震災80年以上引き取り手もないままここにある。ということは、一家が全滅してしまっていると言うこととも受け取られる。

そんなことが意図せずとも頭を駆け巡りながら、両国に向かった。


江戸東京博物館脇から


五月場所の幟がはためいていた

我が家で行くと軽く6万円かぁ・・・
とても無理・・・

久しぶりの両国橋を渡り、神田川の河口に架かる柳橋を経由し店に帰り着いた。