春の芽

春に何を感じるか。

ぼくはこのイメージ。

だから新緑の中を歩くのが好き。

早起きは・・・・

毎月一日は浅草寺境内を清掃する。

朝の勤行に参加して後おもむろに参加者各々の判断で境内に散る。

三十年近く前は、1周りすると結構チリトリがいっぱいになるほど多かったゴミも、本日の収穫は何かの商品に付いていたタグの紙切れが一片のみ。

お巡りさんや消防士さんと同じ理屈で、働きがいがない方が平和なのだと理解する。

ま、誰も汚さないから綺麗なのだと理解したいが、僕らが掃除にかかる前にお寺の清掃担当のおじさんたちが、夜も明けぬ前からせっせせっせと頑張っておられる縁の下の働きがあるというのが答えなのだが・・・

人間は、あればあったで文句が出るし、なければなくて、肩透かしを食ったようで力が出ないと文句を言いそうになるもののようだ。

終わるとちょっと喫茶店に寄って世間話をして帰る。
ひと回りも、ふたまわりもの先輩たちと気軽に話す機会はなかなかないので楽しい。

最年長者の一人のS氏の横に陣取った。
昔話が楽しい。
「情けは人のためならず」とひょいと出た。

氏が四十年以上も前に湯島にある焼き鳥屋に友人たちと通っていた話し。

焼き鳥をついばみながら、旨い酒を飲みながらひょいと横を見ると、貧乏学生だろう数人のグループが二本の焼き鳥を、大切そうに串から抜いて皿にとっているのが見えた。

氏は不審に思い、声をかけた。

「お兄ちゃんたち何してるの?」

「はい。金がないから、みんなで分けているんです」

義侠心篤き氏は、大皿いっぱいの焼き鳥と焼酎を注文し、彼らに振舞った。

「浅草のSさん、店に来ているか?」
誰かが店に何度も足を運び斥候に行く。

彼ら貧乏学生どうしの合言葉と行動になっていった。

「りっぱになれよ」
振舞うたびごとの氏の口癖だった。

時は流れ一昨年、突風に吹き飛ばされた末に頭を打ち脳挫傷で氏は緊急入院した。

意識を取り戻したS氏に彼は「私を覚えていますか?」

の質問に答えかねた。

「昔お世話になりましたKです」

搬送先の病院で氏を迎えてくれたのは、かの貧乏学生の一人K氏だった。
しかも外科部長の要職についていた。

・・・・・・・

小説より奇なり。。。
「こんなことがあるんだよ」

めぐりめぐることを涙目で話してくれた。

大晦日

浅草寺境内は年の瀬にかかわらず人でごった返しています。

20年前は、静かになったものですが・・・

関係なくはないのだ。
さ、お店に帰って正月の支度をしなくちゃ・・・・

久しぶりにちょっとそこまで

ずいぶん久しぶりになる。

以前は月に二回は細々した販売用の小物を買いに来ていた浅草橋。

最近はドーンと構えて出かけることはない。
ネットでなんとかなることもあるが、出不精になったといえばそのとおりかも知れない。

御徒町にも足を伸ばさなくなったし・・・

行くと余計なものを買っちゃうという悪い癖が出てしまうこともあるかな。

しかし行かないと空気が見えない。そう今の空気というのは五感で感じるものなので、パソコン画面からはどんなに工夫してもガラス板一枚分空気を感じることはできない。

正月も近いことから・・・ん?クリスマスがあるだろうって?

残念でした。

浅草にはクリスマスはありません。

で、20年選手の自転車を駆ってスイーっと出かけた。

しかし、今はクリスマス用品まっ盛り。

正月用品はほとんど肩身の狭い姿でしか見ることはできなかった。

肩透かしをくって帰る途中、厩橋(ウマヤバシ)脇にて、懐かしい可愛らしい声が団体さんで響いていた。

チュンチュンチュンチュン・・・・

よほど見かけなくなった雀の大合唱。

お!ここか・・・

どこかって?

ここですよ。

え!まだわからない?

ね。

他にもどこか生垣に隠れてチュンチュンチュンチュンチュンチュンチュン・・・・

どんどん変化する・・・

花川戸に住んでいた時にはあまり感じなかった。
いやがおうにも弁天山の鐘の音は間近に響くし、浅草寺の境内を通って行くのが一番安全であり、便利なこともあって、繁華街というより寺町のど真ん中にいる気がしていた。

雷門に引っ越してからは、昔からの大店(おおだな)のあった土地柄か雰囲気はまるで違う。

たった、500m圏内の話なのに町の空気は異なっている。

引っ越したばかりの頃は、花川戸の空気を吸いに馴染みの店に、てくてく歩いて行ったものだが、慣れてきてくると少々足が遠のく。

だから無理してでも言い訳を絞り出して、寺を歩くことにしている。
(まぁ早朝は毎朝隅田川沿いを走ってはいるのだが・・・)

そんなわけで、足繁く通っていた頃と違い、ちょっと見ないうちに通りの様子や店の入れ替えが恐ろしく変化していることに気づかされるというわけである。


浅草寺境内は半分以上が外国人。

浅草寺裏のイチョウの木は元気良かった。

ずっと以前、お預かりしていた古仏壇をこの場所で「仏壇供養」させてもらった。
30台の仏壇をお焚き上げしたのだが、思いのほか火力が強く、このイチョウが本堂を守ってくれて火の盾になった。もうできないだろうな・・・


あれ?こんなところに親父さん。

たまには・・・

「浅草のそら」ならぬ、「東京のそら」です。

スカイツリーと東京タワー両方が写っていますよ。。。

見えない?

スカイツリーは向かって左の奥です。

東京タワーは右の方

増上寺の裏手の丘の上に立つ東京タワーは、以前は周りに何もなかったから一人勝ちだったんですけどね・・・

今はビルの合間に隠れています。

鉄塔よりビルがその高さにそそり立つ時代になってしまったのですからね。。。

今日明日とほおずき市です

浅草の今日はほおずき市です。

天気予報では雨。

午後からは激しい雨に見舞われるといいます。

小雨ぱらつく中でしたがいつもと変わらず、隅田川ラン。川の中を走るわけではありません。

駒形堂から走り始めて駒形堂にたどり着くのがいつものコースですが、今朝は浅草寺に寄り道をすることにしました。

走り初めよりも雨足が気になる様相となってきましたが、ほおずきの鉢を忙しく運ぶ人の波に若干ほっとしたTONでした。

が、まだまだわからぬ・・・どうなるものやら。この天気。


雷除けのお守りもでかい!


スカイツリーも境内とようやく馴染んできましたね。

宝蔵門前が一番雰囲気がありました。

さ、あすは四万六千日の本番。

どうなりますやら・・・・

日本橋中洲に歩く

取引先であり友人の日本橋の仕事場にママチャリで出向く。

以前は蛎殻町にあったものが移転し箱崎町に移ってまだ一度も伺っていなかったので、資料を送れば済むところ、仕事の依頼をしに出向いてみた。
足には自信があるとはいえ人の自転車ほど乗りにくいものはなくあれ?こんなに遠かったっけと感じた。朝のジョギングでは、両国橋まで来ているのに、「遠いーー」なんて感じたことはなかったのに・・・自転車の足でなくなっちゃたんだなぁと市松の寂しさを感じつつ歩を進めた。

途中iPhoneの地図で行き先を確認すると、なんと中洲を通る。

TONは以前、時代小説を読んでいて中洲という地名を目にした時から、勝手に妄想を膨らまして現代はどういう場所なのかと密かに伺う機会を探っていたのだった。
ワクワクしながらその街に入った。

神社や寺、時によっては墓地を探るのがその町の空気を嗅ぐには都合が良い。

今ではエアーシティーターミナルですっかり風景が変化してしまった箱崎近辺だが、江戸の昔は月見の名勝地と謳われたところという。湾岸の高速道路下には箱崎川という川がありそこに架かる菖蒲橋(跡)を渡れば、中洲となる。

もともと隅田川下流の中洲を明和8年(1771)に埋め立てられ浜町と地続きになり、芝居小屋や水茶屋などの歓楽街に変貌する。
絵の中にある葦の原の中洲が松平定信による寛政の改革(寛政元年(1789)で全て打ち壊されてしまった後の中洲にあたる。当時は三ツ俣と呼ばれていた。

それにしても街として成立していた繁華街をもとの中洲の状態に戻してしまうとは・・・

明治に入り再び埋め立てられ中洲町として栄える。

船玉金刀比羅宮もその時点で建立されているが、関東大震災時に灰塵に帰したようである。

記念碑には・・・
 中洲は江戸時代隅田川の浮洲なりしを明治初年に埋立て此の地に船玉琴平宮が祀られ産業振興の神として広く崇められたり。しかし惜しくも大正十二年関東大震災の為に烏有に帰し再建の機運に至らざりし所、湯浅勘次郎氏の夢枕が機縁となり同志相諮り此の地を卜して四国琴平宮の御霊を遷座奉祀し広く繁栄の守護神として茲に建立し奉る。
 昭和二十九年十二月吉日

とある。
湯浅勘次郎氏がどういう方なのか分からないが、少し調べてみたがほとんど資料は見当たらなかった。唯一該当するのか分からないが、戦時中の日本船籍の船主の名前に同名があり、海の守りに欠かせない金比羅さまという神様と関係があってもおかしくないことから、篤信者の同氏の夢枕にあらわれたのかなと想像してみた次第。

神社を囲む玉垣には料亭や割烹の屋号が並んでいて土地の興りがそこはかと感じる。

東京の町は本当に面白い。

江戸をそこここに置き去りにしているのだ。

墨田区も歴史を感じるね・・・

お客様のところに行く道すがら、墨田区大平町の寺町を通り抜けた。

震災ととくに空襲でみーんな燃えてしまって風情はなくなったのだろうけれど、それでも門前が整っていると、それなりに寺町を感じることができる。

惜しむべきと言えばよいのか、斬新といってよいのかわからないがここでもスカイツリーの姿がしかと望める。

ふ~ん鬼平犯科帳の舞台にも登場した由緒あるお寺ですか。。。?
「由緒ある寺」は「豊臣秀吉公、徳川家康公も立ち寄られた」を修飾する言葉かな・・・

大田道灌の時代からのお寺で、もとは山号にもなっている「平川」のふもと、つまり江戸城近くにあったということらしい。何度かの変遷を重ね元禄二年(1689年1月)今の地に落ち着いたと寺歴に書いてありました。

立派な三重塔もあり境内はきれいに掃き清められていた。

塔頭と思われる寺院も門前に。

そうっかぁ。。。

鬼平も歩いた道ってことだね。あれは何巻だったっけな。

さらに歩を進めて北砂。
戦災記念館があります。

一度来たかったのだが、こんなときでもないとと思ったら・・・休館。

そ、博物館は月曜日は通常どこでもお休みですね。

またの来館を楽しみに帰路につきました。

ん?お客様のところは・・・・?