お客様の庭先に咲く桜。
もうこんなに咲いている・・・
ちょっとした気づきを書きました
お客様の庭先に咲く桜。
もうこんなに咲いている・・・
もしかしたら・・・都電のレール跡?
この辺りは、道路を掘り返して外した気がするけれど・・・
なんだろう・・・
発見?
突然、空が見えた!
何事か前後が不明となった。
次の瞬間・・・
ガッツーン!!
痛ってぇ・・・
見事に頭から落ちた。
凍ってやんの!
(ポールは近くにあったのを後続のウォーカーたちの事故防止のために僕が立てました)
嬉しいことがあった。
そばにいたホームレスのおじさんたちが寄って来て
「にいちゃんだいじょうぶかい」
だって。
にいちゃんと何十歳も若く言われたことも嬉しいけど、
普段何のかかわりもないような「あなた」と「私」との距離がぐっと縮まったことが嬉しかった。
頭をさすりながら歩き出した。
浅草の町は次々に変貌を遂げている感がある。
手を変え品を変えという言葉のほうがよいのだろうか・・・
僕がこの町に根を下ろして四半世紀が経つが、当時は三社祭りに担ぎ手が足りなくてよそからの援助が必要なほど、斜陽という言葉の似合う町となっていた。
昔の栄光ばかりが一人歩きしている町。
それが今はどうであろう・・・
バックパッカーが街を闊歩し
商店街の通りは信じられぬほどに活気が溢れ出した。
久しぶりに日曜日、六区フラワー通り、今の浅草六区通りを歩いた。
通りが整備されて歩行者に優しい。
優しいから人も留まる。
留まるから店も賑わい変化する。
変化するから人を集める。
集まるから、通りも変化する・・・
前向きなスパイラルとなっている。
そんな空気が町のオーラとなって感じる事ができる。
浅草出身の芸人の顔写真が街路灯にかざられている。
こんなに多かったのだ。と思う。
懐かしい。
「浅草ってね、芸には厳しかったけど、売れない芸人に優しい町だったんだよ」
「腹ペコだろこれ食ってきな」があちこちで言ってくれる町だったんだよ。
って萩本欽一・・・欽ちゃんが地元の「お上さん会」の招きで行ったレセプションの席上で語った言葉が忘れられない。
たとえ言葉半分と考えてもそんな空気が昔の下町にはあったんだよね。
今「喜劇役者」という肩書きを誇りとしている役者がどれほどいるのだろう。
笑われる芸人はいるけれど、泣き笑らいさせてくれる芸を持つ者がめっきり減ったのは寂しい。
町はきれいになって、活気に満ちていくけれど、
それにみあう文化の生きる町にならないとね。
ポテンシャルは充分すぎるほどある町なのだから。
朝の隅田川は気持ちがいい。
もともと水辺が好きで、生まれてからこのかた水辺以外で暮らした事がないぼくとしては、水が生命線でもある。
横浜にいたときとやや違うのは、かもめの種類くらいだろうか。
手すりのオブジェかと思うほど、整然と並びがバット群れているカモメたちにドッキリしながらヒッチコックの映画の主人公になったような気持ちで鳥をよけながら歩いた。
「かもめの水兵さん♪
並んだ水兵さん♪・・・」
全く違う歌が口から漏れた。
ちなみにこの歌は、「村の渡しの船頭は今年60のおじいさん・・・♪」(船頭さん)や「赤い帽子白い帽子仲良しさん・・・♪」(赤い帽子白い帽子)
で有名な、作詞家武内俊子が、横浜からハワイに布教に出る叔父の見送りに行った横浜港のメリケン波止場で詠んだ詩が元になっている。
久しぶりの懐かしい歌詞である。
さらに言えばこの叔父という人は、大谷探検隊にも参加した明治の探検家であり僧侶でもある渡辺哲信師である。
こんな所で浄土真宗の坊さんが現れるとは思いもよらなかった。
今度、隅田川の川面にぷかぷか浮ぶカモメたちを見るときには、
そんなことを思い出しながら見つめてみようと思う。
まだ凍っている・・・
と見えるけど
硬い表皮の中で
しっかり熟しているんだよ。
隅田川のテラス化工事が始まると消え行く光景だ。
無責任な立場で見ているぶんには、この不規則な画面だからこそ情緒があるのだが・・・・
観光化されていく上では、また防災上においても無理な話なのかもしれない。
せいぜい今を心に留めておこうと思う。
うちの通り会のメンバーの奥様の作。
何でも作っちゃう。
この土地が招き猫のルーツの一つなのでね。
浅草に多いのは、下町人情と
食べ物屋。
もんじゃ、てんぷら、うなぎはもとより
最近は珈琲屋さん・・・何?古い?
ならば、Cafe。
それと、そば屋が増えた増えた増えました。
この一角だけで、立ちそば屋3軒+50m圏内にやぶそばあり、尾張屋あり、十和田ありで何だかとても賑わしい。
食べるものには事欠きませんよ~~~。
ちらりほらり。
咲いたね。
いよいよ春。